覚悟を決めて自分たちが正しいと考える道に邁進する人物として、『忠臣蔵』でたびたび描かれる赤穂浪士たち。師走になると、義侠心たっぷりの彼らの姿を映画やドラマで楽しんでいる人も多いだろう。しかし、当時は赤穂浪士ではなくとも、武士のほとんどが忠義の名分さえあれば、命を捨てることに大きなためらいはない精神性を持っていたのだという。
はたして、当時の武士はどのような思いで、生死を捉えていたのか。ここでは、文学博士の故・山本博文氏の著書『殉死の構造』(角川新書)の一部を抜粋。武士たちのアイデンティティに迫る。(全2回の2回目/前編を読む)
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忠誠心とはなにか
元禄13年(1700)12月20日、佐賀藩の長崎勤番を勤めた深堀領主鍋島安芸守茂久の家来深堀三右衛門と志波原武右衛門が、長崎の町年寄高木彦右衛門(公金運送の役を命じられ、幕府から扶持を与えられていて武士身分であった)の中間惣内と雪道で行き合ったとき、泥をはねてしまった。
惣内が傍若無人な悪口を投げ掛けたので、2人は、かれを路頭に蹴飛ばし、打擲して追い放した。惣内は、「おれは彦右衛門の家来だ。仲間を連れてくるから、そこを動くな」と捨て台詞を残して逃げていった。2人は、しばらく待ったけれども惣内らが来なかったので、五島町の屋敷に帰った。
その夜、惣内が仲間を連れて仕返しにやってきた。10人ばかりが、手に手に棒を持ち、「早く出てこい!」と呼ぶのに、「心得たり!」と返答して2階から飛びおりるが、両者とも刀を奪われ、棒で散々に打ちのめされた。「今はこれまでなり」――これくらいにしといてやる、と連れだって帰る惣内らを追っていくこともできない。
領地の深堀に差し替えの刀を取りにやらせると、三右衛門の子嘉右衛門や志波原の下人が長崎に急行した。三右衛門らは4人で高木彦右衛門の浜の町の屋敷に行くが、門を開けない。
深堀では、驚いた妻子らが事情を親類に告げた。一門が聞いて集まってきて、「私情の恨みはさておき、主人の屋敷の門戸を踏み荒らした狼藉者は、片時も許してはおけない」とみな長崎に駆け付けた。