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かぶき者的な行動

 総勢12人の者たちは、夜が明け門が開くのを待った。そして、門が開くやいなや屋敷に押し入り、応戦する高木家の侍たちを斬り殺し、ついには彦右衛門を討った。かれらが火の始末をしている頃、さらに他の佐賀藩士がおいおい駆け付けてきた。

「本望はこれまでなり」と、三右衛門と志波原はその場にて腹を切り、他の者はその首を持ち、五島町の屋敷に帰っていった。

 これは国元佐賀と長崎奉行に知らされた。翌年3月、幕府は、討ち入った10人に切腹を命じ、のちに駆け付けた9人には遠流が申し渡された。

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 これは、「かぶき者」的行動そのものである。元禄頃の武士たちにも、これほどの行動をするエネルギーと狂気とがあったのである。

 主君が討たれたわけではないが、大勢で町人(ただし幕府から扶持をもらい、大勢の牢人を召し抱えていた)の屋敷に討ち入ったのは、主君の屋敷へ狼藉したという事実があったからである。「忠義」の名分さえあれば平気で命を捨てるのが武士の心性である。赤穂の牢人を、ことさらに忠臣、義士と祭り上げる必要がないことに気づくであろう。

 なお、深堀鍋島家の家中は、すでに紹介したように安芸守茂賢のとき組家中を含めて22人の殉死者があった。殉死者とかぶき者の相似的な関係をよく示している。

「忠臣蔵」という名前で親しまれ、義士と称される赤穂の牢人たちの構成は、「不義無益」と断罪された殉死者の構成を拡大したものであった。47名の中には、中小姓クラスの下級家臣が多く含まれており、その心性には「かぶき者」的要素が色濃く反映していた。

 かれらの行動は、当時から忠義にもとづくものだととらえられている。しかし、その「忠義」の内実は、主君への情誼的一体感を感じる者は少なく、自らの武士の体面から出た意地の方が大きかった。

 主君への情誼的一体感についていえば、和辻哲郎氏の「献身の道徳とその伝統」などに説かれる中世以来の武士の伝統的な心性である。これは「忠義」の現れとみることもできるが、実は「忠義」とは別物の非合理的情念であった。いわば、無自覚的な全面的献身である。これは、殉死禁止令にみられるように、幕藩体制においては否定された心性であった。