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毎日新聞が報じた「元兵士による目撃報告」

 シベリヤの奥地、バイカル湖の西方タイシエトからさらにその西方の彼方にあるソ連の“女子戦犯収容所”に密行し、ここに収容されている五人の日本人女性に会ってきたという一引揚者がある。この引揚者は、去る一月廿日入港の高砂丸で帰国した南蒲原郡大面村西大湊、野村勝次氏(三三)で、同氏はタイシエト地区収容所一七八分所の抑留者世話係を務めていたが昨年八月初め、同じ分所でソ連大尉の当番をしていた山形県出身の今光雄という抑留者とともに、同分所から最も離れた地点にあるソ連、朝鮮、その他各国の戦犯婦人ばかり約一千二百名を収容している通称“一九五収容所”でソ連の看守兵のすきをうかがい辛じて作業中の日本婦人五名と決死の会見をしたというのである、しかも野村氏は既に昨年九月か十月頃引揚げているはずの今光雄氏を探し出し、相談の上なんとか出来るものならあの女捕虜の帰国促進の陳情をしたいと今氏を探している、以下は野村氏の語る鉄のカーテンに秘められた“シベリヤ女捕虜幽へい物語”である。

 私達のその“女戦犯収容所”への密行は昨年の八月初旬から九月にかけ、厳重な監視の眼を避けながら汽車で行ったり、馬に乗って出かけたり三回にわたって試みられた。そして三回目にようやく目的を達し千二百名の各国女子収容者に混っていた五人の日本婦人に会うことができた。

 はじめて会った時、彼女たちは『三年ぶりで見た日本の男』と泣いて喜んだ。丁度作業中で支給されたズボン一つでそのズボンもボロボロでシャツはぬぎ半裸の姿で女とは名ばかり、髪は無造作に束ねて油気もなくモッコ担ぎや石運びの重労働作業をしていた。

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 一人は元憲兵の妻だったという某女(二八)、他の四人はいずれも二三歳から二五歳までの若い娘で、元関東軍司令部の電話交換手をしていたという。出身地は山形、青森、秋田、北海道などで残念ながら名前は忘れてしまった。彼女たちの話では昭和二一年春満州から三八度線を目指して南下した列車に乗ったが途中で下車させられ身元調査によって元軍人や官吏の家族、軍部の従業員だったことが知れ、各国戦犯婦人一千余名が収容されているシベリヤの奥地タイシエトに送られたものである。憲兵の妻だった某女は単に憲兵の妻だったという理由からタイシエトの戦争裁判にかけられ労役一六年、他の四名は同じように軍部の従業員であったという理由で八年から一〇年の労役を科せられたという。

 同収容所には独ソ戦当時独軍の占領地で敵国の糧秣を運搬したというソ連婦人たちや朝鮮の婦人たちが大多数をしめ日本人は彼女ら五名だけであった。

『私達に何の罪があるというのだ 帰して下さい、帰して下さい、帰せ』彼女らは来る日も来る日もはるかに日本とおぼしき空の果をながめ悲嘆の涙に明け暮れたという。何という残酷、何という非人道であろうか。罪のないものを捕虜とするソ連の冷血さはまだまだ続いている。食糧もごくわずか、薬も医者も与えず次第に衰弱してゆくという状態、自然、収容所内の生活は連日食にうえた女同士のけんか怒号、リンチが繰り返され身を切られるような望郷の念に駆られ一人はほとんど半狂乱の状態であった。絶望感に死を決意したことも幾度かあるという。

 ノルマはひどく全く男そのままの生活で、時にはソ連の看守兵や収容所を訪ねるソ連将校などが理不尽にも貞操を迫り生きた心地がないといっていた。『私たちと同じような日本婦人が他の収容所にもいるかしら』と同胞を気づかう彼女達はひしひしと迫る望郷の念に『ああ私達はもう日本へ帰れないのかしら、一目でいい、お母さんに会って死にたい、一度だけでいい日本の土を踏んでみたい』とほほを涙でぬらし『どうかして帰る術はないか』と私をかき口説いた。だが私にしたところでこの厳重な監視の網の目をかすめてどうして彼女達を逃亡させてやれるだろう。ああそれは余りにも無謀である。何故かといえばこの奥地からはこれまで一度も逃亡して成功したためしはなく発見されれば当然銃殺である。それよりは時機を待つことだ。私は必ず彼女達が救われる日を確信し祈念して秘かにそこを抜け出したが絶望にゆがんだ彼女達のあの顔は今なおまざまざと目に焼きついている。

(毎日新聞〈新潟版〉1950年3月16日付)