1ページ目から読む
3/3ページ目

 こうした女性たちの存在は、シベリアに抑留された兵士たちの間でごく一部の者には知られていたものの、社会の大きな関心を呼び起こすことはなかった。戦後、人々は何より生活を再建することに必死だった。元兵士たちについては、一家の稼ぎ手として早期帰国を求める様々な運動が起こったものの、女性たちについてそうした声が上がったという例はほとんどない。ソ連に捕われた女性たちを救おうという機運が高まることはなく、事実上、彼女たちの存在は見棄てられた。

 その理由は、どこにあるのだろうか。日本政府の無作為という問題だけではない。当時の日本社会における女性の位置づけと深く関わっている。なぜ人々は沈黙したのか。その理由は、受刑者の女性たちの断片的な記録からもおのずと浮かび上がってきた。

女性受刑者たちの肖像

 ソ連で刑を受けた女性たちとは、どのような人々であったのか。彼女たちのうち何人かは、帰国後に回想録を刊行している。

ADVERTISEMENT

 赤羽(のちの坂間)文子は、大連のソ連領事館で日本語教師をしていた経歴がスパイ罪に問われ、5年間の強制労働を科せられ、その後さらに5年間カザフスタンに流刑され1955年4月、帰国した。彼女の回想録『雪原にひとり囚われて』は、淡々とした筆致で抑留生活が描かれており、随所に手書きのカットが挿入され、紀行文のような味わいがある。

 益田泉は同じく大連でロシア人学校の日本語教師を務めていた。終戦後の1949年、ソ連軍工業局の傘下にある工場で通訳として働いていた時にスパイとして捕えられ、1953年12月に帰国した。親族に特務機関員がいたことも災いしたらしい。旅順監獄を経てウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク、タイシェットの女子戦犯収容所に送られた。

 中村百合子は結婚のわずか一週間後に夫が戦死し、関東軍情報部で勤務した。終戦後、ロシア語が堪能な経歴をかわれ北朝鮮工業技術連盟で通訳を務めた時、38度線を越えて引き返したところを1947年9月ソ連軍第二五軍の諜報機関によって捕えられた。

 彼女たちは、いずれも語学に関わる仕事に携わっていたためスパイと見なされたことが共通している。

 その他、今回の取材で明らかになった110名の女性受刑者の中で多かったのが、特務機関に所属する女子軍属や電話交換手だった(以下、一部伏字)。

塩田美津子 牡丹江特務機関。刑期11年。帰国年月日不明。

西田〇〇 樺太の電話交換手。刑期15年。帰国年月日不明。

長崎美津枝 札幌月寒の憲兵隊事務所勤務。サハリン残留。1990年一時帰国。

〇〇子   樺太特務機関勤務。1956年6月帰国。

森本清子  東寧特務機関の電話交換手。帰国年月日不明。

 いずれもソ連側が諜報活動に従事したと見なし、刑を受けている。

女たちのシベリア抑留 (文春文庫 こ 48-1)

小柳 ちひろ

文藝春秋

2022年9月1日 発売