「シベリアに女の方も……?」と切り出すと、「ええ、いましたよ」と、こともなげな返事が返ってきた。――60万人の日本人が収容所に送られ、強制労働に従事させられた「シベリア抑留」。その中には、女性抑留者もいたという。

 彼女たちはなぜシベリアに連れていかれたのか? そして、どんな人生を送ったのか? ドキュメンタリーディレクターの小柳ちひろ氏の新刊『女たちのシベリア抑留』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

シベリアに抑留された女性たちはどこへ行ってしまったのか?

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女性のシベリア抑留

「シベリアに女の人もいたんですか? 初めて聞きました」

「いや、シベリアに女はいないはずですよ」

1945年8月、日本の敗戦後、旧満州などから関東軍兵士らおよそ60万人がソ連やモンゴルの収容所に送られ、強制労働に従事させられた、いわゆる「シベリア抑留」。その中に数百人の女性もいたという。

 かつてシベリアに抑留された元兵士たちに、女性たちについて知っているか尋ねてみると、たいていの人が怪訝そうな顔をした。だが中には抑留された女性について、わずかに見聞きしている人もいた。

 細谷弘治さんは、満州国の首都新京(現在の長春)にあった満州国軍軍官学校に在籍中、終戦を迎え、シベリアに抑留された。17歳だった。満州国軍とは、満州国の建国とともに創設された軍隊で、“五族協和”を標榜し、日本人のほか漢族・満州族・朝鮮族・蒙古族で編成されていた。日本人は、軍官学校を卒業した各民族の将校(軍官)とともに指揮官として従軍した。韓国の朴正熙元大統領も軍官学校の同窓の一人である。

雪に覆われたシベリアの大地 写真はイメージです ©iStock.com

 細谷さんたち軍官学校の第7期生、375人のうち316人が抑留され、そのうち86人が亡くなった。

 細谷さんが送られたブカチャーチャの収容所に、一人の日本人女性がいた。看護婦だと聞いていたが、直接言葉を交わしたこともなく、詳しいことはわからない。細谷さんは、この女性がどういう経緯でシベリアに送られたのか、かねてから不思議に思っていたという。

 永田潔さんは、入隊後、関東軍露語教育隊に配属され、ロシア語教育を受けて特務機関に在籍していた。シベリアに抑留後まもなく裁判で刑を受け長期抑留を強いられた、いわゆる“戦犯”である。終戦から11年後、1956年に釈放され、帰国を果たした。

「シベリアに女の方も……?」と切り出すと、「ええ、いましたよ」と、こともなげな返事が返ってきた。

 永田さんの記憶に残っているのは、終戦から5年後、多くの抑留者が日本に帰国し、“戦犯”だけがソ連各地からハバロフスクの収容所に集められた頃、慰問団として楽団とともに収容所を訪れた歌手の女性だ。終戦前までは樺太でドサ回りをしていたと聞いている。笑うと出っ歯のため、花より先に葉が出る山桜になぞらえ「山桜嬢」と呼ばれていたが、本名は知らない。

「ソ連の奴らが自分らの慰安のために帰さないんですよ」と苦々しげに語った言葉が妙に生々しかった。