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 千島列島の得撫(ウルップ)島で終戦を迎えた元少尉の渡辺照造さんは、抑留中、女性がいるという噂を耳にした。

「ナホトカで女のアクチブがアジっているという話を聞いたんだよ。『なんでシベリアに女がいるんだ?』と思ったけどね」

 “アクチブ”とは活動家を意味するロシア語で、「民主運動」と呼ばれる、シベリア抑留者たちに対して行われた共産主義の宣伝教育の旗振り役となった日本人を指す。渡辺さんは、アクチブたちが糾弾の対象とした“反動将校”と見なされ、何度も激しい吊るし上げを経験している。

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 渡辺さんは複雑な笑みを浮かべ、思い出したように席を立った。

「ああ、これにも載っているよ」

 本棚から大きなハードカバーの本を取り出して来ると、慣れた手つきでページを繰り始めた。ソ連当局が日本人捕虜の思想教育のために発行した「日本新聞」の復刻版だ。

「これ、これ」

 渡辺さんが示したページには、若い女性の似顔絵と、「在ソ中の皆様に」と題された、抑留者に決起を促す激しい言葉が並んでいた。

 この女性の名はS子さんという。抑留者の間で「ナホトカのジャンヌ・ダルク」と呼ばれていたと聞く。のちに私は、S子さんの足跡を追うことになる。

「員数合わせで連れて行かれたらしいんだよ」

 戦後になってから、女性の元抑留者と交流があったという人もいた。

 依田正一さんは、抑留者たち自身が編纂し、シベリア抑留の実態を知るための貴重な資料集となっている『捕虜体験記』(全8巻)の編集に関わった一人だ。この時、体験記を寄せた元抑留者の中に、一人の女性がいた。

「兵器廠(しょう)かどこかの軍属だとか言っていたな。ソ連軍が満州に入って来て避難する際、女だとわからないように軍服を着て男装していたために、員数合わせで連れて行かれたらしいんだよ」

 依田さんは、同情に堪えないという表情を浮かべて言った。

 シベリア抑留を描いた画文集で有名な画家の佐藤清さんは、戦後「日独捕虜交歓会」という会合で、女性の元抑留者に出会った。千島で捕えられた電話交換手だったという。この地域の電話交換手と言えば、ソ連が侵攻した時、戦況を伝えたのち「これが最後です、さようなら」と言い残して自決した、樺太真岡郵便局の9人の乙女のエピソードが思い出される。彼女たちも、自決していなければソ連軍の捕虜となっていたのだろうか。

「その人に『抑留された女の人はどれぐらいいるのですか?』と聞いたら、『1000人ぐらいはいるんじゃないですか』と言っていましたよ。確かなことはわかりませんがね。看護婦で抑留された人もいましたから、看護婦と交換手がいちばん多かったんじゃないかな。女性で抑留されたのは」