それに、女性でありながらソ連の捕虜になった人たちにとって、抑留生活は忘れたい記憶に違いない。現在、どこかで静かに人生の最晩年を過ごしている彼女たちを探し出し、当時を語って欲しいと望むこと自体、取材とはいえ、あまりにも失礼なのではないだろうか――。
シベリア民主運動の取材は非常に難しかった。抑留当時、アクチブとして共産主義に傾倒していたはずの多くの人が、取材の申し込みに対し、狼狽し、平静さを失った。多くの人は、シベリアの収容所という異常な環境で、イデオロギーに熱狂した自らの過去を恥じているように感じられた。ロシアの地方公文書館に残るアルバムの中で、無邪気に笑っている「ナホトカのジャンヌ・ダルク」ことS子さんもまた、当時の記憶を忘れたいと思っているかもしれなかった。
彼女たちの存在が消えてしまうのではないか
しかし、その後も数年にわたり、あの戦争の時代に生きた人々の取材を続ける中で、忘れられた女性たちの存在が気になってきた。
戦争について取材する場合、対象者の多くは男性である。しかし時折、男性たちの妻や姉妹など、女性たちの話を聞くと、はっとするような真実が立ち現れる瞬間があった。
女性たちが自ら語り、書き残した記録は非常に少ない。そして歴史について書かれた書物も、多くは男性の書き手によるもので、女性たちを描くために割かれているページは少ない。
だからこそ、女性たちの存在に気付いた者がその声を聞き、記録を残さなければ、彼女たちの存在は消えてしまうのではないか。私は、シベリアに抑留された女性たちを探すことにした。
2014年1月から取材を開始し、手がかりが見つからないまま、あっという間に2か月が過ぎた。ようやく一人の女性元抑留者に会えたのは、3月9日のことだった。