「サハリン(樺太)では多くの日本人が残っていたため、女性が逮捕され、裁判が行われたという記録もあります。いずれにしても、その判決は全て不正だったと思います」
戦中、シベリアの監獄に不当に送られた日本人女性たちは、その後どうなったのか? ドキュメンタリーディレクターの小柳ちひろ氏の新刊『女たちのシベリア抑留』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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ソ連の“女囚”となった日本人
ソ連で裁判にかけられた女性は、果たして何人いたのだろうか。
日本人抑留問題研究の第一人者、アレクセイ・キリチェンコは言う。
「何人の女性が刑を受けたのか、はっきりした数字はわかりません。日本軍の特務機関などに勤めていた女性もいたでしょうし、またサハリン(樺太)では多くの日本人が残っていたため、女性が逮捕され、裁判が行われたという記録もあります。いずれにしても、その判決は全て不正だったと思います。ご存知のように裁判はソ連の国内法で裁かれました。主に第58条(反革命罪)が適用されています。しかしソ連人でもないのにソ連の刑法でスパイに問われるということがあり得るでしょうか? 仮に裁判が行われるならば、国際裁判であるべきでした。例えばニュルンベルク裁判や東京裁判のように」
ソ連で刑を受けた日本人は、長期抑留者たちが帰国後に作った団体「ソ連長期抑留者同盟」(のちの朔北会)によれば、男女合わせて2689名。その他、一部重複している可能性もあるが、樺太で刑を受けシベリアに送られた者は2972名に上る(北海道庁、1955年)。
この中に、女性は何人いたのか。私が調査した範囲では114名の氏名が明らかになったが、この数字が全体の何パーセントに当たるのかは見当もつかない。
シベリアの監獄に送られた女性たちの存在は、当時、日本社会にどのように伝えられたのだろうか。
一枚の古い新聞記事のコピーがある。満蒙開拓団について詳細な調査を続けている新潟県在住の郷土史家、高橋健男氏から提供されたものだ。
記事の見出しは「あゝ日本へはもう帰れない」「郷愁に心も狂う 重労働に泣く五女囚」。少し長くなるが、当時の状況をよく伝えているため全文を引用したい。