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野球を辞めて生活していけるのか…僕が経験した「戦力外通告」と“その後”

文春野球コラム クライマックスシリーズ2022

2022/10/10

 みなさん、こんにちは! 埼玉西武ライオンズOBの米野智人です(ヤクルト→西武→日本ハム)。昨年からライオンズの本拠地ベルーナドームのライトスタンド後方にあるピンクのお店「BACKYARD BUTCHERS」を営業させていただいてます。いつもご来店くださっている皆さま、本当にありがとうございます。

 肌寒い季節が訪れたなか、ライオンズはクライマックスシリーズで敗退してしまいました。辻発彦監督は勇退を発表、フリーエージェント権を持った選手の去就が注目を集めるなど、早くも来季に向けたチームづくりが報じられていますが、この時期はプロ野球選手にとって寂しい季節でもあります。

 私、米野智人もライオンズ時代にその経験をしたひとり。

ベルーナドームの米野さんのお店「BACKYARD BUTCHERSにて ©中島大輔

 今から7年前の2015年10月2日、僕は戦力外通告を言い渡された。

 前日の19時頃、自宅でくつろいでいた僕のもとに1本の電話が鳴った。いつもはかかって来ない球団の方からの着信だった。

 心の準備はしていたとはいえ、「やっぱり来たか!」という気持ちと緊張が走った。

 一呼吸おいて、電話に出た。

米野「はい、米野です」

球団「球団の〇〇ですけど、お疲れ様です。明日お話があるので球団事務所に11時に来てください。よろしくお願いします」

米野「わかりました。よろしくお願いします」

 ほんの数十秒のやり取りで、全てを察することができた。プロ野球選手にとっても、球団の方にとっても、辛い数十秒だった。

 これが戦力外通告だ――。

プロ野球選手としての最後の瞬間

 その日はなかなか眠りにつけず、いろんなことを考えた。

 野球はここまでかな? いや、まだまだ身体は元気だ! まだやれる自信もある。

 どこかの球団からオファーがあるかも? もしなかったら海外のマイナーリーグでもできるのかな?

 今思うと、このときは野球以外のことは考えていなかった。とりあえず両親に連絡を入れて、数日後に故郷の札幌に帰り、ゆっくり考える時間を作った。

 そんなときに地元球団・北海道日本ハムファイターズの当時GM補佐(現2軍監督)をされていた、ヤクルトスワローズでチームメイトだった木田優夫さんから連絡があり、翌年の2016年から選手兼コーチ補佐としての入団が決まった。

 2016年のシーズンスタートして5月ごろ、自分の中で自然と湧きあがってきた気持ちがあった。もう野球選手としてはここまでかな、と。

 引退された方が、「引退するときは不思議と自然にそのタイミングがわかるよ」と言っているのを聞いたことがあるが、本当に僕の場合もそんな感じだった。

 その旨を8月頃に球団に伝え、その年限りでの引退が決まった。

 引退試合は毎年10月に行われる、若手を育成するフェニックスリーグだった。

 実績を残した選手の引退試合とは違ったかたちだったが、有り難かった。捕手として2イニングに出場。最後の打席はタイミングバッチリだと思って打ちにいったが、打球はつまったショートゴロに終わる。

 刹那、いろんな想いが込み上げてきた。

 ベンチに戻るとチームメイトが迎え入れてくれて、みんなと握手を交わした。静かにユニフォームを脱いだ。

 これで本当に終わったんだな――。

 前年の2015年に戦力外通告を受け、翌年2016年に現役引退した。まだ現役でやりたくても、プレーする場所がなくて辞めていく選手も多いなか、最後に自分から「辞めます」と言えた僕は選手として本当に幸せだと感じられた。