今年に入って、吉田拓郎(76歳)が年内で音楽活動を終了すると宣言したり、財津和夫(74歳)がフォークグループ・チューリップとして最後の全国ツアーをスタートさせたりと、70代の大物ミュージシャンたちが活動に一区切りつけるケースが目立つ。
そのなかで、きょう9月20日に75歳の誕生日を迎えた小田和正は目下、3年ぶり、70代に入って2度目となる全国アリーナツアーを継続中である。国内の男性ソロアーティストによるアリーナツアーとしては、スタート時点で74歳8ヵ月と、矢沢永吉が昨年記録した72歳3ヵ月を超え、史上最年長記録を更新した。
小田和正が「負けた」と確信した瞬間
小田が音楽の道に進むきっかけとなったのは、東北大在学中の1969年、地元・横浜の聖光学院中学・高校の同級生である鈴木康博と地主道夫と組んだジ・オフ・コース(のちのオフコース)というバンドで、第3回ヤマハ・ライトミュージックコンテストに出場したことだ。彼らは、アメリカのモダンフォークなどのレコードを聴き込んでは練習に励んでいた。おかげで周囲の評判は高く、自分たちがどれだけうまいかを確かめる意味でコンテストに出て優勝し、それを記念にやめようと話し合っていたという。
だが、予選を勝ち抜いて出場した全国大会では2位に終わる。このとき、1位となった赤い鳥の演奏を聴いた途端、小田は「負けた」と確信したという。負けたままやめるわけにはいかないと思い、音楽活動を続けることにし、翌1970年にはシングル「群衆の中で」でデビューする。その後、地主が就職のため脱退し、1972年からしばらくは鈴木と2人で活動した。
小田は大学で建築を学んだ。東北大の同窓生には建築史家・建築家の藤森照信(東京都江戸東京博物館館長)がいる。藤森は学生時代の小田の印象について、当時の学生では珍しく車を持っており、《その車に乗ると、音楽がかかって「これオレの歌だ」と。歌なんか歌って、軟弱な野郎だと思ってた(笑)。それと、絵がものすごく上手で、パース(引用者注:建築の設計説明図、完成予想図)を描かせると断然うまくて、設計はちゃんとやれる人だというのは知ってた。ものすごく繊細なタッチで、光や風を感じるような。それはちょっと、歌と似てる、と言えなくもない(笑)》と語っている(日経アーキテクチュア『NA建築家シリーズ 04 藤森照信』電子書籍版、日経BP社、2015年)。
小田自身は、建築と音楽の似ている点について、よく「階段とトイレ」をたとえに説明してきた。大学での課題設計では、階段やトイレは、どこに配置するかまずアバウトに考えるものの、そこで細かく描き入れたりはせず、後回しにしがちな部分だった。それと同様に、曲づくりでも、一番盛り上がるサビへと続くジョイントの部分などは、重要なところにもかかわらず、最後まではっきりと決まらず、あとで無理してはめることも多かったという。