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 1982年には日本武道館で10日間という前代未聞の規模のコンサートを開催し、オフコースは一つの頂点に達する。だが、直後に鈴木康博が脱退、小田は音楽自体をやめようかと真剣に悩んだ。結局、2年の休止期間を経て4人でオフコースを再開させるも、1989年に解散にいたる。

家賃80万の事務所を選んだわけ

 こうしてソロに転じたのだが、本人に言わせると《ソロでやっていけるなんて思ってなかった》という(『週刊文春』2001年7月5日号)。それでも個人事務所の場所を決めるにあたっては、家賃が80万円と40万円の物件をくらべたうえ、《八十万だと潰れちゃうけど、四十万だと潰れないっていう事務所はやってもしょうがない。八十万のとこで頑張れないようじゃダメなんだ》と考え、高いほうを選んだというから(同上)、覚悟のほどがうかがえる。

 1991年には、ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌「ラブ・ストーリーは突然に」が270万枚の大ヒットとなる。その直後には、映画制作にも乗り出した。監督第1作『いつか どこかで』(1992年)は評論家から酷評を受け、傷つきもした。しかし、数年後には再び監督に挑戦し、2作目となる『緑の街』(1998年)では、歌手である主人公が映画を撮るという設定で、1作目の撮影現場でのできごとも取り込んだ。

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「Oh!Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に」(1991年)

 自身の失敗を取り込むというアイデアの源泉には、1993年に全米シニア・ツアー公式戦でプロゴルファーの青木功のキャディを務めた経験がある。これはゴルフ雑誌の連載で小田自ら発案して実現したもので、その様子は翌年、テレビ東京でドキュメンタリー番組として放送もされた。試合中、失敗を繰り返しては青木から叱られ、右往左往する小田の姿は、思いのほか反響を呼ぶ。この経験から、お客さんも自分がドジを踏んでいる姿を見れば、親近感が湧くとわかったという。

交通事故に遭い、九死に一生を得たことも

 このころから小田は自分を惜しみなくさらすようになった。ツアーでも、「ご当地紀行」と題し、訪れた先々で彼があちこち回る様子を公演前にビデオに撮って編集し、会場で流すのがおなじみとなっている。コンサートではまた、花道を歩いたり走ったりすることも恒例となっているが、これは1998年に交通事故で大けがを負い、九死に一生を得たことがきっかけだった。事故後、ファンから「助かってよかった」という手紙がたくさん届いたことに感動した小田は、その恩返しとして、できるだけ観客に近づくことで喜んでもらおうと思ったのだ。

 今年のツアーの広島公演では、観客が演奏に合わせて自発的にスマホライトを点灯し、小田やバンドメンバー、スタッフたちを感激させた。残念ながらその後、点灯に乗じて撮影や録音が行われるなど違反・迷惑行為が運営側に報告されたため、検討の結果、禁止となってしまったが、観客との関係を大事にしている小田としては苦渋の決断であったろう。