それでも、70歳を前にしたころには、そのやり方も見直すようになった。彼いわく、《本来はやはり、流れでつくっていくべきだと思うよ。そしたら、もう、その流れで、次はとってもスムーズに、あるいはダイナミックに展開できる。(中略)だから、これから残りの時間は、できるだけ、あとでつくる部分を残さないで、流れでいけるようなものをつくりたいなとつくづく思っているんだけどね》(小田和正『「100年インタビュー」保存版 時は待ってくれない』PHP研究所、2018年)。
教授の逆鱗に触れた、修士論文のテーマとは
さて、東北大を卒業した小田は、1年浪人して早稲田大の大学院に進んだ。それは音楽か建築かどちらの道に行くか、決めるのを少しでも先送りしようという作戦でもあった。結局、音楽に専念するため1年休学したが、所属する研究室の主任教授には、ちゃんと卒業したほうがいいからと修士論文を書くよう促される。
そこで提出したのが「建築への訣別」と題する論文だった。論文は提出後、教授たちの前での簡単な質疑応答を経て、正式に受理される。小田は論文のなかで、既存の建築がいかに大衆からかけ離れているか、一般の人たちからアンケートもとるなどして分析しながら持論を展開していた。もう建築はやめるつもりでいたので、質疑応答ではつい力んで、面接官だったある教授の作品を批判してしまう。
怒ったその教授から「君は何をやるつもりなんだ」と問われ、小田は「音楽をやります」と返したところ、「音楽はよくて建築はだめだっていうのか」と詰め寄られた。そこへ主任教授が論文を見せなさいと助け船を出す。結局、論文はしっかり書いてあるし、建築がだめだとはどこにも書いていないとわかり、タイトルだけ変えるということで落着した。のちに小田は《それくらいやらないと、踏ん切りがつかなかったんだと思う。自分で》と述懐している(『NA建築家シリーズ 04 藤森照信』)。
「さよなら」ヒット後に生じた疑問
この間、オフコースは鳴かず飛ばずの時期が続いていた。レコードが売れないうえ、コンサートで前座を務めるたびに「帰れ」と野次られ、みじめな思いをしたという。だが、70年代後半に入って新たなメンバーを迎えて5人編成へと移行したのが転機となる。フォークからロック色の強いバンドに転じ、「愛を止めないで」「さよなら」など続々とヒット曲も生まれた。
このうち「さよなら」は、レコーディングが予定されていたその日に「さよなら」というフレーズを思いつき、当初の歌詞を書き直したところ、小田自身も売れそうな手応えを感じたという。ただ、実際にヒットしてみると、これは自分たちのやりたかった音楽なのかという疑問も生じた。そこで考えた末、世間で注目されているいまこそ、自分が伝えたいことを込めた歌をうたうべきだと思い、次のシングルでは、メッセージ性の強い「生まれ来る子供たちのために」という曲をリリースする。