2022年7月21日、プロ野球の近鉄バファローズの球団代表を務めた足高圭亮氏が69歳で亡くなった。足高氏は近鉄で編成部長、球団本部長、球団代表などを歴任。2001年には球団取締役として梨田昌孝監督を支え、2年連続最下位からのリーグ優勝に貢献したことでも知られる。04年のオリックスとの合併時には、「最後の球団代表」として諸問題の解決に力を注いだ。
足高氏の1歳年下で、近鉄バファローズ「最後の監督」として、氏とともに戦った梨田昌孝さんが文春オンラインに追悼の言葉を寄せた。
◆◆◆
近鉄最後の代表、最後の監督として共に闘った同志
皆さん、はじめまして。梨田昌孝です。
島根の浜田高校から近鉄バファローズに捕手として入団して以来、球界で長くお世話になり、近鉄のほか日本ハム、楽天でも監督を務めました。その縁のおかげで地元の島根や現在生活している関西のほか、札幌や仙台などでも講演の依頼を受けることがあります。その時はよく、近鉄時代の恩師の西本幸雄監督、仰木彬監督、近鉄でともに戦った岩隈久志選手らの話をします。
講演で名前を挙げることはないのですが、野球界で私には彼らと同じぐらい、いえ、それ以上と言ってもいいほど大事な人がいました。今年7月21日に69歳で亡くなった元近鉄球団代表の足高圭亮さんです。
2004年に近鉄がオリックスと合併するに至るまで、近鉄最後の代表、最後の監督として共に闘った同志でした。私の思いを形に残せないかと考えていたところ、今回このような場を頂くことになりました。
深刻な問題だったサイパン、日向のキャンプ2本体制
近鉄監督に就任1年目の2000年、チームは優勝したダイエーと15ゲーム差の最下位に終わりました。私は抜本的な改革が必要だと危機感を覚え、まずはサイパンと宮崎・日向で行っていたキャンプを、日向に一本化してほしいと球団の窓口である足高さんに要望しました。
近鉄はサイパンで1985年から、2月1日スタートの1次キャンプを張っていました。親会社の近畿日本鉄道の系列のホテルや旅行代理店にとっては、観光でPR効果がある球団のキャンプは戦略上、不可欠なものでした。
一方で現場を預かる身としては選手の調整という観点から見ると、気候が日向より非常に暑く、2月途中に帰国した際の寒暖差で、また一から体を作り直させなければならないジレンマを抱えていました。当時主砲だった中村紀洋選手などはサイパンに行かず、ずっと日向で調整していたほど深刻な問題だったのです。