文春オンライン

2022/09/25

合併、球団消失…心労はいかばかりだったか

 しかし、そんな幸せな時間は長くは続きませんでした。04年6月に起きた、あの「球界再編騒動」です。

 日本経済新聞の一面で報じられた近鉄とオリックスの合併計画に、現場には衝撃が走りました。足高さんでさえ知らされていない、親会社の上役だけで進めていた「トップシークレット」でした。

 親会社の経営環境の厳しさは、監督の立場でも常々感じていました。ただ、「身売り」はあっても球団が消滅してしまう「合併」は想像もしていませんでした。一体、我々はどうなってしまうのか。足高さんは現場と本社の板挟みになりながら、対応に追われるシーズンになりました。その心労はいかばかりだったでしょうか。

足高圭亮氏

 例年なら9月頃になると、ドラフトやら外国人の補強などで来季のことを足高さんと話すのですが、球団が消滅するわけですから、それも必要ありません。その寂しさと言ったら……。

 近鉄存続に向けた動きもありましたが、キャンプ地の変更や選手獲得とは次元が違う話で、足高さんでもどうにもなりませんでした。なすすべなく近鉄の消滅を迎えると、「ふるさと」を失った感覚になりました。他の仲間の多くの再就職が決まっていなかったこともあり、私自身もオリックスの仰木監督からのヘッドコーチ就任の勧誘に応える気には、どうしてもなれませんでした。

梨田昌孝さん ©文藝春秋

近鉄消滅後も「陰の近鉄OB会長」

 足高さんは消滅後も近鉄出身者の動向を気に掛けていました。親会社系列のゴルフ場の支配人に転身し、プレーしに来た近鉄OBの相談に、よく乗っていました。そして私に「ナシ、○○が来年、職がないんだが、どこかないか?」などと相談に来てくれるなど、親身に世話を焼いていました。

 近鉄はOB会も消滅してしまいましたが、足高さんは「陰のOB会長」で在り続けました。こんな足高さんの姿を見ていたからこそ、07年1月にオリックスを退団し、行く先がなかった中村選手を、同い年の中日の落合博満監督に面倒を見てもらえないかと頼むという行動に出たのだと思っています。

足高圭亮氏

 誕生日は私が8月4日で、足高さんは7月31日でした。日付が近かったため、近鉄消滅後は毎年、2人合同で誕生会を開いていました。今年も6月頃に「そろそろ日程を決めましょう」と話していました。しかし、7月になっても一向に連絡が来なかったのです。来たのはその月の下旬、「亡くなったらしい」との知らせでした。

 酒と煙草を愛し、肝臓がんの手術後に見舞いに行った時には大きな術痕を見ました。「代表、駄目ですよ」と諭しても「ええねん」とおいしそうに煙草を吸っていました。

 繊細ゆえに豪快に振る舞い、人に弱みを見せることが嫌いな人でした。格好つけて別れの言葉一つなく、逝ってしまいました。

 代表、最後にもう一度、お話ししたかったですよ。

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