「関ヶ原合戦で東軍が勝利して、徳川家康の覇権が確立、徳川の世が盤石になった……それおかしいんとちゃうか!とツッコミ入れ続けて30年になります」
関ヶ原合戦は、史料の発見や再解釈によっていまだに新説が登場し、百家争鳴の論争が起きる。日本近世史家・笠谷和比古さんの『論争 関ヶ原合戦』は、論点を11に整理し、時系列で諸説を吟味していく。刻一刻と変わる戦況にじわじわ追い詰められる家康の姿を、緊迫感ある筆致で描く。
本書は朝鮮出兵での豊臣政権の内部分裂から筆を起こす。加藤清正ら武功派と石田三成ら吏僚派が対立し、豊臣秀吉死後に三成襲撃事件が起きた。この事件は「関ヶ原合戦の縮図ないし原型」で、家康と武功派が協調関係を築く契機となる。
ターニングポイントは、慶長5年(1600)7月25日に行われた軍議、「小山評定」だ。上杉征伐のために家康に従軍していた豊臣系諸将は、挙兵した三成を討つことを誓約した。東軍は反転西上、家康もそれを追うと決まったが、家康は江戸に戻って以後、なぜかひと月も動かない。
「この空白の1カ月は、味方を勧誘する手紙の作成に忙しかったと説明されますが、手紙は右筆(ゆうひつ)が書きますし、花押(かおう)を書くぐらいなら宿でも馬上でもできる」
様々な史料を見て、笠谷さんは思い至る。西軍は一斉に蜂起したわけではないのではないか――。
「実は当初、豊臣政権中枢の淀殿と三奉行は、家康に早く上方に戻り、三成らの不穏な動きを鎮めて欲しいとの意向でした。家康も諸将もその認識で小山評定の誓約を交わした。しかし、数日の間に淀殿らは一転、家康を弾劾する『内府ちがひの条々』を全国の大名に発します。つまり西軍の蹶起(けっき)には二段階あったのです。謀叛人となった自分を裏切るかもしれない豊臣系諸将と行動するのは危険。家康は動けなくなったのです」
一方、諸将はどう考えていたのか。「この本で一番大事」と笠谷さんが示すのは、福島正則が浅野長政に宛てた手紙の、「秀頼様御為(おんため)よきやうに仕るべく候」との一節。
「自分たちが仰ぐべきリーダーは家康以外にいない。ただ、やがて豊臣家と秀頼に害を及ぼすのではないかと心配もある。正則は、家康の婿である池田輝政とも話し合って、『心配無用、秀頼様への忠誠は揺らがない』と自信をもって書きます。従来言われてきたように、諸将は豊臣家を見限ったのではなく、三成を討つという条件でまとまっていた」
東軍先鋒が快進撃を続ける情勢に、家康は江戸を急遽発(た)ち、わずか10日で清洲城に進出する。金扇の馬印を先に送るなど、隠密裏の行軍。家康は焦っている。
「このとき、家康は深刻なディレンマに陥ります。時間稼ぎをしたい、かといって時間に猶予はない。嫡子・秀忠率いる精鋭部隊は遠く中山道を行軍中で、もしここに正則ら豊臣恩顧の武将を揺さぶる存在が現れたら……。合戦当日まで続いた家康の危機は、関ヶ原合戦後、恩賞の配分にも色濃く表れます。西軍から没収した632万石の実に8割強が豊臣系諸将に分配されました。彼らの調略や戦場での戦功が甚大で、報いざるを得なかったのです」
家康は勝った。だが、一国規模に及ぶ豊臣系国持大名が西国に並ぶことになった。家康の危機の日々が、260年に及ぶ徳川幕藩体制を方向づけたのだ。
「歴史は固定されたものではなく、常に動く。史料の読み直しや、景観や遺跡の調査で、新たな課題が見つかることも。歴史の地殻変動を感じてほしいですね」
かさやかずひこ/1949年、神戸市生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。博士(文学)。国際日本文化研究センター名誉教授。専門は歴史学、武家社会論。著書に『主君「押込」の構造』『関ヶ原合戦と大坂の陣』『信長の自己神格化と本能寺の変』等多数。