立浪監督は「力になれなくて申し訳ない」と返したという。多くの言葉を必要とせず、あうんの呼吸だった引退に、2人の間にある「一定の距離感」が象徴されていた。
福留派と立浪派
福留が中学時代に故郷の鹿児島から中日の宮崎・串間キャンプに、毎週末に家族とともに車で訪れ、当時ルーキーだった立浪監督の練習にくぎ付けだったことは有名な逸話だ。その背中を追うようにPLに進学。在学中の1995年のドラフト会議で7球団競合の末、抽選で指名権を獲得した近鉄入りを拒否し、社会人野球の日本生命で96年のアトランタ五輪に出場するなど力を蓄えた。
99年、逆指名で中日に入団し、晴れて立浪とチームメートになった。「福留にとって1年目からレギュラーを張り、既に球界屈指の内野手だった立浪は大きな目標だった。福留は入団時、遊撃手で、立浪とは同じ内野手でもあり、絶対に頭が上がらない先輩だった」(前出のチーム関係者)
その関係に変化が生じ始めたのが2002年だった。伸び悩んでいた福留はこの年、打率3割4分3厘で初タイトルとなる首位打者に輝く。同年を最後に巨人からメジャー移籍した松井秀喜の三冠王を阻み、一躍ブレークした。
「引退セレモニーでは『この世界でやっていける自信を持てた』と言ったようにやっと芽が出て、ここから立浪との力関係が逆転していった」(当時の担当記者)
実績では立浪に引けを取らない
福留は球界を代表する強打者に成長。一方で立浪は衰えを隠せなくなる。
「福留は立浪より(チームの先輩だった)山崎(武司)に付いていくようになっていた。山崎は03年にオリックスに移籍したが、福留の2年目から合同でやっていたハワイでの自主トレは、山崎が楽天に移籍してもずっと続いた。中日では『立浪派と福留派』と言われた時期があった。ともに名球会入りする大選手になるわけだから、福留が後輩だからといって、いつまでも立浪の下につくのも不自然ではあるが……」(前出のチーム関係者)