習近平の治世と似ていないか……
思想家の方孝孺は「燕賊位を簒う」(逆賊の燕王=後の永楽帝=が皇帝位を奪った)と批判した結果、一族ばかりか門弟まで含めて873人が処刑された。「建文」という元号の存在が認められたのは193年後の1595年になってからだが、建文帝即位までは認められなかった。それが認められたのは明が滅びて92年後の清の乾隆元年(1736年)で、死後330余年もたってからだ、と陳は書く。
「中国歴代王朝のなかで、士気が最も振わなかったのは明王朝である。明代にはなんどか歴史の歪曲がおこなわれ、そのたびに知識人にたいする弾圧があった」
こう記す陳舜臣は、明末の宦官、魏忠賢の恐怖政治に触れる。魏は秘密警察を駆使して反対者を弾圧した。当時の皇帝が死ぬと魏は逮捕され、縊死したが、新帝は、屍をはりつけにするよう命じた。明王朝滅亡はその17年後だ。
永楽帝は、鄭和に命じた南海大遠征、5度のモンゴル親征、安南(ベトナム)出兵などを通じて、「中華」の対外拡張を推進した。明朝の時代は、現在の共産党政権、特に今の習近平の治世と似ていないか。
歴史の歪曲・抹殺と知識人への言論弾圧――。
陳舜臣は、勃興しては崩壊した中国王朝史の視点で天安門事件を観察し、懸念が現実となった33年後の今に警告を発しているかのようだ。
「このたびの流血に、私は多くのことを、歴史に照らし合わせておもった。
公認記録による歴史の歪曲は、勇気ある記述者と人びとの記憶によって粉砕されることを考えた。建文の4年は、同じ王朝代に回復されている。映像時代になっても、書かれた記録とおなじで、糊と鋏で、でっちあげることも可能であろう。だが、真実は〔作家の〕魯迅のいうように消せないものなのだ」
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