1966年から1968年にかけて、中華人民共和国の建国の祖・毛沢東を信望し、その教えに反対する者を徹底的に弾圧した紅衛兵たち。大量の死傷者を出した、その激しい活動とはいったいどんなものだったのか?
『文藝春秋』の過去の記事をもとに、「中国と日本の100年間の歴史」について綴った、北海道大学大学院教授の城山英巳氏の新刊『日中百年戦争』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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新聞が報じない「中国」
『文藝春秋』は、日本の新聞が報じない、あるいは報じられない「中国」を伝え続けた。「報じられない」というのは、「北京」(中国共産党)を怒らせたくないという忖度のためである。「忖度」は、北京特派員を置けば、より必要になり、さらに「報じられなくなる」というのは皮肉である。
文化大革命は、1966年5月16日に発せられた綱領的文書「五・一六通知」で正式に開始され、清華大学付属中学(中学・高校に相当)で最初の「紅衛兵」が組織され、全国で若者による「造反」の嵐が起こった。
67年に入ると、紅衛兵グループ同士の抗争が激化し、熾烈な武闘が繰り広げられて大量の死傷者を出し、社会は無政府状態に陥った。「紅衛兵の『裏切られた革命』」の筆者ケン・リンは、福建省の文革闘争で指導的役割を果たした元紅衛兵で、手記の中で66年夏から2年間にわたる紅衛兵運動の実態をつづった。
人肉を食べる中国の農村
「紅衛兵の『裏切られた革命』」を解説した東京外国語大学教授の岡田英弘は、「異常としか言いようのない事件また事件の展開である。中国の指導者たちの素顔、若い無垢な青年の魂が政治に利用され、用ずみとなるや弊履のごとく捨て去られる冷酷な中国社会の体質、それが、リアルな筆致で、(中略)描きだされている。中国の歴史では、これに類する事件が、これまでに何回となく生起しているし、これからもまた起らないという保証はない」と記す。
なぜケン・リンの詳細な記録が、文革の終わっていない1973年に世に出たのか。68年夏、紅衛兵を利用して権力闘争に勝利した毛沢東は一転、秩序回復のため紅衛兵を弾圧した。
その中で、ケン・リンは兄と一緒に、福建省アモイから夜の海を4時間、約12キロを泳いで、対岸の台湾の離島、大胆島に脱出した。掲載された手記は、ケン・リンが中国語で記した50万字を超える自伝と、米国の学者が聞き取った談話を基に作成された。
ケン・リンは紅衛兵の「狂気」の世界に身を置きながら、自分の周囲で起こる出来事を冷ややかに客観視している。多くの紅衛兵の心情を代表しているのではと感じてしまう記録だ。