8人は11月18日、北京に着き、同26日に全国から来た百万人近い紅衛兵とともに毛沢東の姿を見た。
「彼はジープに乗っていた。その顔は無表情で、喜んでいるのか悲しんでいるのか判らなかった。唇を少し突き出し、尊大な様子で、眼はじっと前方を見つめていた。右手を肩まで上げて、二、三度ぎごちなく振った」
わきには痩せて猫背の林彪が『毛沢東語録』を高く振っていた。
「林彪の笑顔は気味悪かった――彼は生れつき醜く、それに反逆的な顔をしていた」。
アモイの紅衛兵は1966年末、劉少奇夫人の王光美を攻撃する吊し上げの大会にも参加し、翌67年1月初旬に北京をたった。アモイに戻り、アモイの工場監督者を追放し、ケン・リンは生産本部長に就いた。紅衛兵集団は2つの党派に分かれ、お互いに人民解放軍から奪取した銃器を持って戦った。敵の紅衛兵は60ミリ迫撃砲や中型戦車も用いた。アモイ市中心部では昼も夜も銃弾が飛び交い、ケン・リンが好意を抱いていた妹妹は近郊での戦闘で敵弾に当たって死亡した。
紅衛兵運動の転換点
1967年7月に武漢で起こった紅衛兵の武装闘争は約600人が死亡する事件に発展し、紅衛兵運動の転換点となった。各地で同様の武闘事件が相次ぎ、秩序回復のため新たな権力機構として各省に革命委員会が発足し、紅衛兵を排除した。
68年夏には「労働者毛沢東思想宣伝隊」が学校に進駐し、労働者と軍人が主導して紅衛兵を武装解除し、学生指導者の逮捕と人民裁判が始まった。紅衛兵らを下放させる上山下郷運動も展開された。
こうした中でケン・リンは母にそれとなく別れを告げて、兄と一緒に海へ泳ぎ出したのだった。
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