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 紅衛兵たちにとっての最初の標的の多くは学校の校長や教師だったが、ケン・リンが所属したアモイ第八中学の「造反」紅衛兵は校舎の前に、頭や顔にインクを浴びせた40~50人の教師を並ばせた。「反動的学術権威何某」「階級の敵何某」などと書かれたプラカードを首からつるし、三角帽子をかぶらせた。そして「糞便や虫を食べさせ、電気ショックを与え、割れたガラスの上にひざまずかせ、腕と脚で“飛行機”にしてつるした」。

尊敬する銭先生が殺された

 ケン・リンは「その日いちばん大きな衝撃を受けたのは、尊敬する銭先生が殺されたことだった」と続ける。

「銭先生は60歳を越して高血圧で悩んでいたが、(中略)校舎の2階に引きずり上げられ、引きずり下ろされ、その間中竹ざおで叩かれた。

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 彼は何度も気を失ったが、そのたびに冷水を顔にぶっかけられ、拷問は6時間以上もつづいて、ついに失禁するに至った。その肛門に彼らは棒を突っ込もうとした。彼はまた失神し、水を浴びせられたが、すでに手遅れだった。

 あれが人間が人間を扱うやり方だろうか、とぼくはひとりになって考えた。鶏は刃物の一突きで殺されるが、拷問される人間は即死することもできないのだ。(中略)しかし、あんな不愉快なことを目撃しながら、なぜこの世に生きのびなければならないのだろう? 人民はすべて平等という共産主義社会に間違いはないのか?(中略)でもそのことはぼくはあえて誰にもいわなかった」

 1966年10月、アモイ八中の紅衛兵代表8人が北京に行き、全国各地から集まった紅衛兵と革命経験を語り合う「全国経験大交流」に参加することになり、ケン・リンは少女3人、少年5人の交流代表団の長に就いた。汽車の乗車券と宿泊代はタダで、交流経費として300元が支給された。

 この手記の特徴は、文革の悲劇を描いているだけでなく、それ以上に当時の中国農村の惨状が紅衛兵の視点から記録されていることだ。北京に汽車で向かう途中、安徽省を通過した。