日本の統一教会系出版社が発行した「日本統一運動史」によれば、岸氏は73年4月、本部教会を訪れてこう話したという。
「笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で……」
文氏はこう明かしている。
〈日本の政治、政界の有力者である首相の岸信介という人を(略)笹川のじいさんと組ませて、私たちの計画通り踊らせるようにしておいたんですよ〉(69年5月12日/160巻)
勝共に賛同した岸氏の自民党派閥を源流とし、後に清和会(現・安倍派)を立ち上げたのが、福田赳夫氏だ。福田氏は大蔵大臣だった74年5月7日、来日中の文夫妻が出席した晩餐会でこう挨拶したとされる。
「アジアに偉大な指導者現る。その名は“文鮮明”である」(前出・「日本統一運動史」)
日本の次期首相は岸氏の娘婿である晋太郎氏だと信じていた
福田政権の発足はこの2年半後のことである。
福田氏と同様に文氏が〈私が首相にした〉と主張するのが中曽根康弘氏だ。
中曽根政権下の86年7月、自民党は衆参同時選挙で衆院の獲得議席が300を超える圧勝を果たす。文氏は、その半数近くが自分の支援した議員だと言い張る。
〈中曽根の時は(略)、130人の国会議員を当選させ、20ある国会の委員会のうち、13の委員会の長は、私が立てた人になりました〉(04年9月16日/468巻)
だが一方で、中曽根氏についてはこうも語る。
〈中曽根が私の世話になっておきながら私に嘘をついて、日本の国会を台無しにしたんですよ〉(91年2月2日/214巻)
87年10月、中曽根氏の総裁任期満了にあたり、安倍晋太郎氏、竹下登氏、宮沢喜一氏が自民党の次期総裁に名乗りを挙げた。だが総裁選は行われず、中曽根氏が後継者の指名権を掌握。竹下政権が誕生した。いわゆる「中曽根裁定」だ。
文氏は日本の次期首相は岸氏の娘婿である晋太郎氏だと信じていた。選集では、実現しなかった理由を中曽根氏が金に転んで裏切ったためと主張している。
首相を〈200億で売られた〉
〈本来は中曽根が中心になって、安倍晋太郎という人が(次の)首相になることになっていました。ところが、首相を選ぶ5分前に、200億(注・単位不明)で売られたんです〉(同前)
晋太郎氏とはこんな“契約”を交わしたと暴露する。