〈安倍晋太郎は私と契約書まで書いたのです。これを発表すると、世の中がひっくり返ります。その時の約束はというと、自分が首相になれば、80人から120人の国会議員を連れて漢南洞(文氏の自宅があったソウルの地名)を訪問するということでした〉(95年10月22日/273巻)
岸氏の系譜にあり、福田氏から清和会領袖の座を継いだ期待をかける人物――晋太郎氏が日本の宰相になれなかったことがよほど悔しかったのか、文氏は後年も中曽根裁定への恨みをしつこく繰り返している。
〈(晋太郎氏は)自分が首相になるためには、夜も眠らずに中曽根の金玉を握って寝なければならないのに、勝手をして売られました。中曽根の後継者は誰になったっけ? 竹下か誰か〉(04年7月31日/463巻)
脈々と続いてきた自民党と統一教会の近すぎる関係
文氏は92年3月20日に栃木県内で起きた金丸信・自民党副総裁(当時)銃撃事件にも言及。
〈金丸は私と会う約束をして招聘した人です。約束した1週間後に銃撃事件が起きたのです。(中略)5メートルの距離で3発撃たれた銃弾は、体に1つもすれ違うことなく、どこかに行ってしまいました。その人が死んだら、私は日本に入れないのです〉(92年4月3日/228巻)
84年に米国で脱税の実刑判決を受けた文氏は本来、入管法の規定で入国できなかった。だが、政界の実力者だった金丸氏の働きかけで、92年3月26日、文氏は超法規的に来日を果たしている。前出の銃撃事件は、90年の金丸訪朝を“土下座外交”と見なした右翼団体の男に至近距離から発砲されたものだが、金丸氏は無傷だった。
それから30年後。金丸氏と同じく至近距離から放たれた凶弾に斃れたのが、岸氏の孫であり晋太郎氏の息子・安倍晋三氏だった。文氏は、晋三氏についてこう触れたことがある。
〈私に後援して欲しいということです。日本の官房副長官(当時)が安倍晋太郎の息子なんですよ〉(03年1月17日/402巻)
登場人物が悉く故人となっている今、選集に残された発言の真偽を確かめることは困難だが、教団の信者にとっては事実として認識されているのか。統一教会に聞くと、こう回答した。
「語られはしたものの、実現していないものは総裁の発言に過ぎず、信徒にとっても歴史上の事実とは認められていません」
教祖が遺した言葉の数々は、脈々と続いてきた自民党と統一教会の近すぎる関係を示唆している。