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 松平家は、家康の祖父にあたる清康の代で、大きく勢力を伸ばしました。1511年生まれの清康はもともとの拠点だった安城、岡崎のみならず、三河一国を平定したばかりか、西は尾張の守山まで勢力圏に収めたのです。ところが、そこに悲劇は待っていました。1535年、清康は守山で家臣によって殺害されます。このとき清康は25歳でした。跡を継いだ広忠はわずか10歳。家臣のなかでも織田寄りの姿勢をとる一派が現れ、広忠は岡崎城からも追放されてしまいました。

 そんな広忠が頼ったのは今川義元でした。今川は織田への対抗もあり、軍勢を送って、放浪を余儀なくされた広忠を駿河から岡崎城に運び入れます。こうして広忠は、今川義元とは、対等の領主同士ではなく、主従に近い関係を結ばざるを得なかったのです。

実は“幸運”だった人質時代

 岡崎城に戻った広忠は、矢作川の西に取り残された親類や家臣を再び味方につけなくては、川沿いにある岡崎の安全は保てません。

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 広忠には、安城よりもさらに西、三河国西部の刈谷に、水野忠政というおじさんがいました。そこからお大という娘を妻に迎えます。イトコ婚でした。翌年、お大が1542年12月26日に男の子を生みます。幼名は竹千代。のちに今川義元の一字をもらって、松平元信(のち元康)となります。家康を名乗るのは、今川から独立したのちのことですが、ここでは家康で通します。

 家康にとっての最初の試練は、生みの母との生き別れでした。ここにも三河の勢力争いが色濃く反映しています。家康誕生の翌年、家康にとっては祖父にあたる水野忠政が亡くなり、その跡を継いだ信元は、広忠を見捨てて、織田方に寝返ったのです。その結果、お大は離縁され、刈谷に帰されていきました。

磯田道史氏 ©文藝春秋

 さらに織田方からの攻勢は強まり、安城城も落とされ、求心力が低下して、広忠には岡崎城ただ一城しか残っていない状況になりました。織田方に、付城とよばれる監視砦を矢作川沿いにたくさん建てられ、身動きがとれなくなってしまったのです。広忠が頼るのは、今川しかありません。しかし、それには代償が必要です。この時代の習いとして、広忠は嫡男を今川に預けることになります。1547年、数えで6歳の家康は、駿河の今川義元のもとに人質に出されることになったのです。

 この家康の人質時代は、これまで臥薪嘗胆、苦難の物語として描かれることが多かったと思います。しかし私は、そうは思いません。家康にとって、この人質の話はむしろ幸運だったといえます。

国際日本文化研究センター教授・磯田道史氏による「わが徳川家康論」全文は、月刊「文藝春秋」2022年11月号と「文藝春秋 電子版」に掲載しています。