「日本の陸の潮目」だった三河
三河という地を地政学的に見た場合、最大の特徴は、周囲を3つの強国に取り囲まれていたことです。東の駿河には今川氏がいて、西の尾張には織田氏がいる。両勢力に挟まれた上に、北の信濃には甲斐から進出した武田氏がのしかかってくるのです。
両側に強敵がいるだけでも厳しいのに、三方をいずれも強敵に囲まれた小国には、三つくらいしか選択肢がありません。一番可能性が高いのは、そのまま滅ぼされることです。次に、なんとか家や領地は存続するのですが、いずれかの強国に飲み込まれ、いわば属国的な扱いを受ける。そして第三に、ごくごくまれなケースとして、強敵と繰り返し戦っているうちに「共進化」を起こし、化け物のように強くなってしまうことです。家康の時代、三河に起きたのは、この第三のケースでした。
三河の場合、もうひとつ大きな要素は、「日本の陸の潮目」に位置していたことです。
頼朝も長良川から東を縄張りだと考えた
もともと日本列島は地質学的にいっても、2つの島から出来上がっています。その継ぎ目であり、裂け目が、本州の中央にあるフォッサマグナで、その西縁は糸魚川静岡構造線とよばれます。これが実は政治文化のうえでも、東西の境目になってきました。日本史上、このフォッサマグナのあたり、駿河、遠江、三河、尾張のエリアを境に、大きな衝突が起こり、文化的にも社会的にも東と西が分かれる傾向があった点は重要です。
それは邪馬台国の時代にさかのぼります。『魏書』や『後漢書』の東夷伝には、女王・卑弥呼の邪馬台国と、卑弥弓呼(ひみここ)と呼ばれる男王の狗奴国が「相攻撃」していたと記されています。これは文字で歴史に記録された日本列島最初の大規模戦争だと考えられますが、狗奴国の中心は巨大な初期古墳の立地から、駿河の国、いまの沼津付近とする説も有力です。
西の邪馬台国は巫女王的な女性をリーダーとする、儀礼や文字などを重んじ、腕力よりも脳内の観念に訴える「儀礼と権威」を原理とした支配を行っていました。これに対し、東の狗奴国のほうは、武を司る男性王が支配し、縦型の命令系統にしたがうような「力と服従」を原理とした国家が想定されます。東の王墓と考えられる沼津の高尾山古墳からは多量の武器が出土しています。
この境目の感覚は、その後も引き継がれ、初の東国政権を開いた源頼朝も、墨俣川、いまの長良川を境として、そこから東を自分たちの縄張りだと考えていました。例えば、平家を打倒した後、義経をはじめ、頼朝の許可なく朝廷の官位を受けてしまった御家人がいましたが、これに対し、頼朝は、墨俣川より東に入ったら領地を取り上げた上に斬首する、と申し渡しています。
三河を軸とするエリアは古来より、日本列島の「陸の潮目」にあたるホットスポットだったのです。
大きく勢力を伸ばした祖父・清康
では、そのような土地で、徳川松平一族とは、どんな存在だったのでしょうか。
家康に続く徳川松平家の祖とされているのが、松平親氏です。この親氏は、もとは徳阿弥(徳翁)といって、諸国を渡り歩く時宗の僧侶でした。それが三河の松平郷に入り込み、その一族が三河で根を下ろし、繁茂していったのが松平家です。三河は「陸の潮目」の係争地です。その不安定さが、よそ者の参入と展開を許しました。
しかし、この「境目の地」はけして安住を許す環境ではありませんでした。大雑把に言えば、愛知県の中央を流れる矢作川をはさんで西側が織田氏の尾張、東側が今川氏の駿河の勢力圏です。厄介なことに、松平家の勢力範囲は、矢作川の両岸にまたがっていました。西側の拠点が安城、東側の拠点が岡崎です。松平家の歴史をみると、安城(安祥)城を本拠としている間は、まだ安泰でした。しかし、そこに織田の勢力が押し寄せてくると、矢作川を渡って、岡崎城に移るほかありません。すると川の西側に取り残された家臣たちの中には、織田側と手を結ぶものも出てくる。