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 子どもの適応能力はすごいもので、僕はわずか1カ月で近所の日本人の子どもたちと遊び始めたし、3カ月程度でほとんどの日本語を覚えた。日本に外国人の子どもが移住する場合、インターナショナルスクールに通うこともあるが、僕は普通の日本人と同じ公立の小学校に入学することになった。日本に住むのなら、日本人と同じ教育を受けるべきだという両親の強い意向があったからだ。

日本人の養子に…通称「小原ブラス」の理由

 ちなみに、僕のロシアでの名前は「クラスツキーイワノフ・ヴラス・レオニドヴィッチ」。意味はクラスツーイワノフ家の、レオニードの息子の、ヴラス。

 ややこしいけどロシア人の名前が「ノフ」とか「ノヴァ」がつきがちなのは、この◯◯の「息子の」や「娘の」のロシア語に当たる語がこれだからだ。名前はVLAS(ヴラス)だが、日本の父の養子にしてもらい通称を届けるとき「小原ヴラス」だと日本では発音しにくいだろうということで「小原ブラス」にしてくれた。

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 このような選択があったからこそ、僕は日本で文化の差からくる苦しみや、孤立を味わうことはあまりなかったと思う。常に日本人の友人に囲まれ、日本の小さなマナーも身についた。まあ子どもなのでその辺は日本の子どもと同じタイミングだ。

 日本人として教育を受けろと言われてはいたが、それでもロシア語を忘れないように、映画はロシア語で観られるようにロシアからD V D を取り寄せてくれたり、自宅での母との会話はロシア語でするように言われていた。

 毎年必ずロシアに帰り、数カ月間生活もさせられていた。夏休み期間だけ、ロシアの学校に通わされていたこともある。母がロシア語を忘れさせたくなかったのだ。おかげで大人になった今、読み書きは苦手だが、ある程度ロシア語はしゃべることはできるレベルだ。

 僕は日本で生活し、日本の教育を受け、定期的にロシアに帰り、経済的に成長しつくした日本と、崩壊した経済を立て直そうとするロシアのギャップを目にしながら育ったということになる。このおかげで僕は100 %日本人でもなく、100 %ロシア人でもない、もちろんハーフでもない、おまけにゲイ、至るところがグレーな人間になり、それが僕だけのアイデンティティになっていったのだ。