テレビ番組『5時に夢中』や『ポップUP!』などに出演しているコラムニストの小原ブラスさん。ロシアで生まれ、日本に移住したのは6歳の時だ。所属事務所のタレント紹介資料には、こう書かれていたという。
「関西弁を喋る面倒くさい性格のロシア人、そしてゲイ」
ここでは、小原さんが自らのアイデンティティや日本人の価値観を見つめ直した本『めんどくさいロシア人から日本人へ』(扶桑社)より一部を抜粋。日本人の「父」に連れられて、初めて目の当たりにした日本の印象は――。(全2回の1回目/芸能界編を読む)
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日本から戻ってきた母と一緒にいたのは…
女性が働くことが珍しくないロシアで、離婚してすぐに母は働きに出た。そして僕は祖父母に預けられ、祖父母とともにダーチャ(編注:各家庭で所有している菜園付き別荘のこと)で育てられたのだ。畑で採れる野菜やじゃがいもを食べ、ダーチャのご近所さんなど、多くの人にかわいがってもらった記憶がある。
決してお金がある家庭とは言えないが、精神的には裕福で幸せな環境だったと思う。ダーチャには鶏が10羽ほどいて、毎朝卵を取りに行ったものだ。まだ生暖かくて少し汚い卵を使っておじいちゃんに作ってもらう目玉焼きは格別だった。当時、ソ連時代の国策として提供されたこのダーチャがどれだけの命を救ったのだろうか。
ソ連崩壊後のロシアがなんとか経済を立て直そうと躍起になっているそんな時期、6歳のときに母が3カ月間、仕事で日本に行くことになった。ソ連の時代、一般国民に海外旅行や海外留学などは無縁で、ロシアになり海外旅行が一般に普及したとはいえ、当時はまだまだ珍しいことだった。ましてや3カ月も異国の地に行くとなると、近所中がその噂で持ちきりになったという。
当然、僕にとってはこの3カ月はとんでもなく長い期間だったが、母が日本という国にいることは自慢だったことを覚えている。なにせロシアでは日本といえば「日本製」が憧れの時代。車も時計もカメラも最新のものはすべて日本製が最高ということで、そこは夢の国だったのだ。
日本に一人で飛びたった母はその3カ月後、二人で戻ってきた。久しぶりに会う母と一緒にいたのは、日本人の男性。後に僕の新しい父親になる男性だった。小原ブラスという僕の名字の「小原(こばら)」がこの人というわけだ。
ロシアにもアジアの人はたくさん住んでいるが、アジア系とスラブ系が結婚することは珍しく、当時の僕はなぜ母がアジアの男性と一緒にいるのかよくわからなかった。
ただ、僕はそのロシア語も話せない日本人を、すぐに好きになった。初めて彼に会ったときのことはよく覚えていないが、彼にお土産をもらったときのことはよく覚えている。