はっきり言ってオンボロ飛行機だ。もうめちゃくちゃうるさい。機内にいても信じられないようなエンジン音、それに飛び立つときに黒煙が出ることで有名な古い機体。豊満でプクプクとした客室乗務員には笑顔一つなく、通路を通るのがやっと。当時のロシアにはまだ企業間の競争がなくサービスの概念がなかったのだ。
ロシアっぽい柄のキャビン用カーペットは薄汚れていたし、荷物棚には電車のような網棚もある、それに機体後部の客室はまだ喫煙が許されていた。なんだかボルシチの匂いもした気がする。今思うと二度と乗りたくない飛行機だったが、当時の僕にとっては夢膨らむ最高のフライトであった。
新潟空港に着くと今度は日本航空に乗り換えて大阪の伊丹空港へ。このときに初めて日本のサービスを体験し、子どもながらにロシアとの差を感じた。ほっそりして姿勢の良い客室乗務員がとにかく優しいのだ。子どもには飛行機のマグネットをくれたし、頼んでもいないのに膝掛けを持ってきてくれた。そして何よりも終始笑顔。母もきっとこのサービスを初体験したときには「これが資本主義か!」と驚いたことだろう。
ロシアでは笑顔は心を開いた人にしか見せるべきではないという考え方がある。いくらサービス業といえど、初対面の人に笑顔を見せることはむしろ失礼。何がおかしいんだ、と思われる。笑うのは本当に面白いときだけ、という文化だ。飛行機が滑走路に向かう際、地上の整備員が笑顔で手を振っている光景はロシア人にとってはもはや不気味だ。
「日本とは宇多田ヒカルの『Automatic』」
僕にとって日本とは宇多田ヒカルさんの『Automatic』だ。何を言っているんだと思われるかもしれないが、いまだに海外に行って日本が恋しくなったときに、ふと頭の中に流れるのはこの曲。というのも、初めて日本に来た日に伊丹空港から、新居のある兵庫県姫路市に向かう高速道路を走る車の中で、この曲がずっとかかっていたのである。
僕はこの曲とともに、車の窓から見える夢の国、ヤポーニヤ(日本) を見たのだ。曲の記憶が鮮明なのは、そのときに乗っていた父の車がメルセデスベンツの高級車だったからかもしれないし、そのときに見た日本の街が夜景だったからかもしれないし、そのとき通過した高速道路の料金所のおじさんがたまたま親切だったからかもしれない。でも、この『Automatic』な夢の国はとにかく「すっげぇ」という驚きと共に異世界に来たかのような錯覚を覚えさせた。
どこまでも行っても、建物が建物の上に建っているかのような景色、そしてそのすべてに灯る明かり、ネオン、ゴミ一つ落ちていない綺麗な街、どこにも凸凹がないまるで車が空気の上を走っているかのようなアスファルト、そのすべてが新鮮で不思議。人もみんな笑顔で、誰も怒っているようには見えない。人も街も滑らかで、まるでプラスチックでできているかのように感じた。多分、僕が死ぬときの走馬灯にはあのときの窓の景色が出てくるだろう。
こうして僕の日本生活が始まった。ソ連崩壊後、生活難から外国に移住する例はたくさんあったが、僕はそのなかでも一番早い世代だったと思う。父は僕を実の子どものように育ててくれたし、母も日本に移住をしてから生き生きとして僕に愛情を注いでくれた。