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彼がスーツケースから取り出した「夢」

 彼のスーツケースからは今まで見たこともない大量の日本のお菓子が出てきた。複雑な絵柄が幾層にも重なるアンパンマンチョコレート、箱をシャカシャカ振って取り出すチョコボール、そしてアポロ、キャラクターが機械仕掛けで取り出してくれるラムネのお菓子......どれもロシアでは考えられない遊び心のあるお菓子だった。

 遊びながら食べられるこれらのお菓子を持って近所の子どもたちに見せびらかすと、その親までが目を丸くして興味津々、おかげで僕は人気者になれた。その他にも彼は、電源を入れると自立して歩くゴジラのロボットとラジコンを買ってくれ、外に一緒に遊びにも連れていってくれた。ただでさえ高い鼻がますます高くなった。

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 自分でも幼少期の出来事をよくこれだけ細かく覚えているなと驚くが、男の子にとって一番父親が必要な年頃に父親のように接してくれた人の存在、そして異国のものに触れる体験はそれだけ強烈だったのだろう。

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 母がそのヤポーニェツ(日本人)と結婚し、そして僕を連れてヤポーニヤ(日本)に住むのだと言うまで、それほど時間はかからなかった。母に「子どもを異国に無理に住ませるのはかわいそうだ」とか「子どもはロシアに残しておくべきだ」とアドバイスをした人もたくさんいたらしいが、当の僕はノリノリだったのを覚えている。

 初めて僕に父親として接してくれた彼に早く会いたかったし、あんなに面白いものがたくさんある、その夢の国を早く見たくて仕方がなかった。

 後に母に聞いた話だが、子どもをロシアに残すべきというアドバイスには一切悩まされることはなかったようだ。母が初めて日本の地に降り立ち、日本の街を見て、日本の人と触れ合ったとき、真っ先に「ここで子どもを育てたい。いや、ここで育てるべきだ」と感じたから、日本を見たことも感じたこともない人たちのアドバイスなど耳には入らなかったと言うのだ。

 今になって思うが、よく「親の離婚は子どもにとって不幸なことだ」と言う人がいるけれど、僕にとってロシアの両親の離婚は最高の出来事だったと思う。誰もが不幸になろうと離婚するわけじゃない。離婚は今より幸せになるための一つの選択肢なのだから、恥じるようなことでもないと思う。あのときより幸せになるための選択をしてくれた母に感謝だ。

子どもながらに感じた、日本とロシアの“差”

 初めて日本に行ったときのことは先週のことのように覚えている。母と二人、今はなきダリアビア航空のTu ‒ 154(ツポレフ154)というソ連製の航空機でハバロフスクから新潟へ飛んだ。