『トワイライト』を読み終わると、手に入る限りの吸血鬼ものに手を出した。その後、狼人間、妖精、魔女、死霊術者、タイムトラベラー、預言者、読心術者、炎術師、占い師、宝石操り師……と移っていった。言いたいことがわかるだろうか。平凡なラブストーリーにはもう満足ができなくなり、男女の出会いという古典的なファンタジーをもっと生々しく、エロティックにした表現を探し求めるようになっていったのだ。
近所の図書館の普通の“フィクション”の棚で、生々しいセックスシーンのあるものを見つけるのがどれくらい簡単かを知り、ショックを受けたことを覚えている。自分の子供がこういうものに手を出してしまわないか心配になった。私が育ったアメリカの中西部の地元の図書館で見つかる最も過激なものは、小6の女の子が主人公のヤングアダルト小説『神さま、わたしマーガレットです』みたいなものだ。
状況がさらに悪化したのは、技術オタクの友人の熱心な勧めでアマゾンのキンドルを手に入れてからだ。もうわざわざいろいろな図書館から本が届くのを待たなくてもよくなり、また、特に夫や子供たちが周りにいる時など、エロティックな本のカバーを医学雑誌で隠さなくてもよくなったのだ。スワイプ2回、クリック1回で欲しい本をすぐに、どこでも、どんな時でも読むことができる。電車でも飛行機でも髪を切る待ち時間でも。ドストエフスキーの『罪と罰』と同じくらい簡単にカレン・マリー・モニングの『ダークフィーバー』を読んでしまえる。
“衝動的な摂取”は人生がうまくいっている時でも直面する問題
要するに私は、月並みなエロ小説のチェーンスモーカーならぬチェーンリーダーになった。電子書籍を1冊読み終えるとすぐに次の1冊に移った。社交するより読書、料理するより読書、眠るより読書、夫や子供たちに注意を払うより読書。認めるのが恥ずかしいが、私はキンドルを仕事場に持っていき、患者を診る合間合間に読んだこともある。
そして、どんどん安いものを探し求めていった。無料なものがあればそれを。アマゾンはやり手の売人に似て、無料サンプルの価値がわかっている。ごくたまに、非常に質のよい本が安くなっているのを見つけることもあったが、多くの場合、安い物は本当にひどい内容だった。使い古された物語の仕掛けで生命感の全くない登場人物が動く、打ち間違いや文法間違いだらけのしろもの。
しかし、そういうものでもとにかく読んだ。なぜなら、私はある特殊な場面だけを求めていたからだ。どうやってそこに辿り着くかといった経緯はどんどん関係なくなっていった。
主人公の男女の間にある性的な緊張状態が、2人が抱き合ってついに解ける瞬間に私は耽りたかった。構文もスタイルも舞台も人物造形ももはや関係がなかった。私はお決まりのカタルシスが欲しいだけだった。そして、数学の公式のようなパターンに従って書かれている本というのは、私を夢中にさせるように作られているのだ。
どの章も疑いを残す終わり方をしていて、章自体がクライマックスありきで作られていた。本の最初の部分を駆け足で読んでいって、クライマックスに辿り着いてしまえば、他の部分は読む必要がなかった。悲しいことに今の私は、どんな恋愛小説も4分の3くらいまで開けば大体の核心を掴めるという知恵をつけてしまった。
恋愛物に妙なハマり方をして1年くらいが経った頃、平日なのに午前2時にまだ起きていて、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』を読んでいることに気がついた。これはジェーン・オースティンの『自負と偏見』の現代版だと自分を正当化していたが、「アナルプラグ」の出てくるページに辿り着いて、そんな深夜にSMグッズについて読むことが私のしたかった時間の使い方なのかとハッとしたのだった。
「依存症」は広義には、ある物質や行動(ギャンブル、ゲーム、セックス)を自分自身や他者を害するのにもかかわらず、継続的かつ衝動的に摂取したり行ってしまうことと定義される。
私に起こったのは、人生を圧倒するような依存症を持つ人の生活体験に比べたらつまらないことだったが、衝動的な摂取というのは今日では誰でも、たとえ人生がうまくいっている時でも直面するものであり、ますます大きくなっている問題だ。
私には優しくて愛情溢れる夫と素晴らしい子供たちがいて、有意義な仕事、自由、自律性とそこそこのお金がある。トラウマもなければ社会的混乱、貧困、失業などその他依存症の危険因子もない。それでも私は、衝動的にファンタジーの世界へとどんどん引きこもっていってしまったのである。