そして高校1年の夏にアメリカの東海岸へ渡り、高校の寄宿舎から、先生のところへ習いに行きました。でも、その先生とソリが合わなくて。それで大学は進学予定だったニューヨークのジュリアード・スクールではなく、西海岸にあるサンフランシスコ音楽院を選びました。
――才能を見出してくれた先生だけど、ソリが合わなかったのですか?
合いませんでした(笑)。でもサンフランシスコ音楽院は面白い学校で。ジョン・アダムズという有名な作曲家が、当時作曲科の教員のトップだったんです。今や大家ですが、まだ若かった彼がすごく面白い作曲のワークショップをしていて、それに参加しているうちに、ピアノよりも作曲の方が面白くなってしまいました。演奏家は厳しい世界ですし、自分でも「向いていないな」と思っていました。作曲家を目指すと言っても、私が学んでいたのは現代音楽です。親としてはピアニストにするために留学までさせた娘が、言うことを聞かなくなっちゃった、って思いますよね。
プロとして初めての作曲が「哀愁でいと」のB面に
23歳で留学を終えて日本に帰りましたが、7年間もアメリカで自由を満喫しちゃった後ですからね(笑)。勘当まではいきませんが、実家を出ることにしたんです。昼間は靴屋さんの倉庫で時給500円で働いて、夜は青山にあったグラタンのレストランでウェイトレスをして自活をしていたんですよ。
でも若いから遊びたいし、いつもお金がなくてヒーヒー言っていたんです。そうしたら、知り合いのキャニオンレコード(現ポニー・キャニオン)の羽島亨(はじま・とおる、田原俊彦や少年隊、石川さゆりなどのヒット曲を手掛けたプロデューサー)さんから、「ちょうど今、曲を探してるんだけど、作曲できる? 書いてみなよ」って言われまして。若いから何も考えずに「はい。書いてみます」って簡単に答えてしまいました。
歌謡曲の「か」の字も理解していないのに作曲したのです。その1曲目が、トシちゃんの「哀愁でいと」のB面に採用されました(「君に贈る言葉」)。