2003年10月9日、中国・瀋陽で観光客の日本人男性が誘拐されるという事件が起きた。
この日、日本にいた妻のもとに1本の電話が入った。何気なく受話器を取った妻の耳に、聞き慣れぬ男の声が響いた。
「身代金500万円を持って、北京から乗り継いで、ここまでおカネを持ってこい」
誘拐犯は日本語でそう指示してきたのだ。夫は旅を満喫しているだろうと思っていた妻は驚き慌てた。
「被害者救出よりも犯人逮捕が優先」日本の警察を悩ます外国の操作手順
外交青書(2004)の第5章「海外の日本人・日本企業に対する支援」の「海外邦人安全対策の推進」の項には、この年に日本人が巻き込まれた事件として、3月の中央アフリカのクーデター(1人が重傷)、8月のイラク国連事務所爆弾テロ事件(1人が負傷)、そしてこの中国・瀋陽における邦人誘拐事件が挙げられている。
誘拐された日本人男性はこの土地で生まれ、幼少期に両親とともに日本に帰国。定年退職を機に、生まれ故郷の瀋陽に一度は行ってみたい、見てみたいと思い、1人でこの地を訪れていたという。
通報を受けた警視庁では、捜査員が被害者宅へ急行。当時の捜査関係者A氏によると、「誘拐犯が身代金に関する電話を日本語でかけてきたことから、警察は当初、犯人を日本人または中国在住の日本人によるものだと推測して、中国の捜査機関に協力を要請。外国の警察組織と連携しながらの捜査となるため、事件を組織犯罪対策部の外国人犯罪や国際捜査を扱う組対2課が担当することになった」という。
すぐに中国語が堪能な捜査員を含め数人が北京に飛んだ。中国側と事件解決について話し合うためだ。
「だが、中国と日本では誘拐事件に対する考え方も対応も、何もかもが違っていた。中国では誘拐事件がおきた場合、犯人に身代金を渡すことは絶対にしないという原則があった」と、A氏は当時の様子を振り返る。
「中国側では犯人らと銃撃戦になって、もし被害者が巻き添えとなって死亡してしまっても仕方がないと捉えていた。日本側が『被害者を絶対に殺してはならない』と訴えても、『無理だ。保証はできない』と主張された」というのだ。
日本の国民感情からすれば、「身代金を渡しても、誘拐された被害者が無事に帰ってきてくれれば良い」と考える。それは警察も同じだ。「被害者を無事に連れて帰るのが、我々警察の仕事だ。被害者だけが殺されでもしたら、私たち捜査員は日本に帰れない」。捜査員たちはそう訴えたという。だが現場でいくら話し合っても、中国側は「身代金は渡せない」と譲らなかったという。