決戦当日。両雄のセコンドは殺気立っていた。リングサイドには極真空手の関係者が複数来場していた。「不測の事態があった場合は猪木を生きて返すな」という大山総裁という無言の意思を感じ取っての行動だった。これは新日本プロレスと極真空手の代理戦争なのだ。
試合開始のゴングが鳴った。1ラウンドは両者ともに相手の様子をうかがう展開。2ラウンドになると猪木とウィリーが場外に転落すると、ウィリーサイドと思われる黒いジャンパー姿の男たちが雪崩込み、猪木を襲撃する。ウィリーが場外で猪木に馬乗りになりパンチを浴びせる中、両者リングアウトとなった。
騒然となる会場。場外で口論に発展する両陣営。いつの間にか額から流血している猪木がエキサイトし、ウィリーサイドに詰め寄る。このままでは終われない。立会人の梶原一騎が試合再開を決断する。
3ラウンドに猪木はウィリーを腕ひしぎ十字固めで極めようとしたが「寝技5秒以内」ルールに阻まれた。4ラウンドになると、またも猪木とウィリーは場外に転落。猪木がそこで腕ひしぎ十字で極めると、ウィリーサイドの関係者が殺到し、大混乱。猪木はウィリーサイドにいる空手家に殴られてろっ骨を折り、ウィリーも関節技で右ヒジを痛めて、両者ドクターストップという裁定で、夢の対決は幕を下ろした。
「猪木だからドクターストップに持っていけた」
この試合について貴重な証言を残しているのが、梶原一騎の実弟で作家の真樹日佐夫である。彼は極真空手の師範を務めた経歴を持ち、試合当日はウィリーサイドについていた。
「あのとき、会場には警備員が100人いたよ。金属探知機も用意されていた。それに引っかかって帰れなくなった奴もいたよ。あのときは何人も留置場に入ったんだよ。俺も(途中で)絶対にプロレスファンと空手ファンの戦争になると思ったから、どさくさにまぎれてレスラーを蹴っ飛ばしてやれということで鉛入りの靴(スニーカー)を履いていったの。鉛は金属探知機に反応しないからね。でも、鉛の重さですぐに脱げちゃうから、上からガムテープで張りつけたんだ。ちゃんとその靴を履いてサンドバッグを蹴って感触を確かめてから会場に向かったよ。(大山倍達)先生は指令を出さなかったけど、以心伝心で、もしウィリーが負けたら猪木を五体満足で帰すなという気持ちで(空手の関係者は)来ていたよね」
「(引き分け決着ながら必要以上に騒ぎが大きくならなかったのは)あれは猪木だから、ドクターストップという終わり方に持っていけたんだよ。運もあったし、相手をうまくリードできる力もあった。そういうものが全部加味されて、辛うじてああいう終わり方になったんだよ。他のレスラーだったら真似できなかっただろうね」(『週刊プロレススペシャル6 プロレスvs 格闘技大戦争!』ベースボール・マガジン社)
ちなみに猪木とウィリーは1997年1月4日の東京ドーム大会で17年越しのリターンマッチで闘っている。決め技限定(猪木=コブラツイスト、ウィリー=正拳突き)ルールで行われた異種格闘技戦は猪木がコブラツイストで勝利を収めた。夢の対決は17年の時を経て決着したのである。
格闘技界に数々の伝説を残したウィリーは2019年6月7日、心臓病のために逝去する。享年67。ウィリーの死去を受けた猪木はこのような哀悼のコメントを残している。
「戦いを離れゆっくり休んで欲しいと思います。さようなら、ありがとう、ウィリー・ウィリアムス。アントニオ猪木」