日本プロレス界の父・力道山は「プロレスはルールのある喧嘩である」と言った。ルールに基づいて行えば、どんなに激しい流血戦も、ただの喧嘩でなくプロレスになるのである。

 しかし、時にはその範疇を越えた不穏試合や「喧嘩マッチ」と呼ばれる試合もある。今年10月1日に亡くなったアントニオ猪木(享年79)も、プロレスラーとして活動する中で幾多の「喧嘩マッチ」を経験してきた。

 ここでは、『プロレス喧嘩マッチ伝説―あの不穏試合はなぜ生まれたのか?』(彩図社)から一部を抜粋。1978年8月2日に日本武道館で行われた「アントニオ猪木VSザ・モンスターマン」戦と、1980年2月27日に蔵前国技館で行われた「アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムス」戦の舞台裏について紹介する。(全2回のうち1回目/北斗晶VS神取忍編を読む

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アントニオ猪木さん ©文藝春秋

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新日本プロレスの運命を背負う、猪木の異種格闘技戦

 プロレスの看板を背負い、数多の格闘家を撃破してきた燃える闘魂・アントニオ猪木が、思い出深い一戦と語るのが1977年8月2日、日本武道館大会でのザ・モンスターマン戦である。

 猪木は1976年6月26日、プロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者(当時)に君臨していた“プロスポーツ界のスーパースター”モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦を実現させたが、凡戦と世間から酷評され、9億円という莫大な借金を背負うことになった。

 さらに視聴率低迷、観客動員数減少に陥り、新日本プロレスは経営危機に直面。借金返済と人気回復のために猪木と新日本が打ち出した戦略が異種格闘技戦路線の継続とアリとの再戦実現だった。

 対戦相手のザ・モンスターマンは全米プロ空手世界ヘビー級王者という経歴を誇る打撃系格闘技重量級(190㎝、110㎏)の怪物。アメリカのプロ空手はマーシャルアーツと呼ばれるが、ザ・モンスターマンは全米プロ空手世界ライト級王者“怪鳥”ベニー・ユキーデと並ぶマーシャルアーツの看板ファイターだった。

 ルールは3分10ラウンド。判定のほか、KOとギブアップ。逆関節技は禁止。寝技3秒以内。ロープエスケープあり。投げ技、スタンドでの絞め技、ヒザ蹴りとヒジ打ちは有効というものだった。

 1ラウンド。猪木はいきなり足元への回し蹴り(アリキック)を見舞うと、ザ・モンスターマンは飛び前蹴りで牽制。そのパンチとキックは強烈で、恐ろしく速い。モンスターマンの打撃を警戒する猪木は組もうとするが、すかさず離れるザ・モンスターマン。互いに一歩も引かない五分五分である。

 2ラウンド。ザ・モンスターマンが左ミドルキックを連発し、猪木が足をキャッチすると右足でお株を奪う延髄斬り。だが猪木は左の掌底から、ダブルアーム・スープレックスで投げる。

 スタンドになりザ・モンスターマンが左ジャブから右ストレートを放つと、猪木は左の一本背負いから腕十字、だが寝技3秒以内ルールなのですぐにレフェリーがブレイクに入る。ザ・モンスターマンは打撃、猪木は打撃を凌いでからの投げ技に勝機を見出しているようだ。

両者、一歩も譲らない戦いが続き…

 3ラウンド。いきなり猪木はドロップキックで飛び込んで、猪木・アリ状態になり下からローキックを入れようとするが、ザ・モンスターマンは上からジャンプしての踏みつけ。スタンドになるとザ・モンスターマンはバックスピンキックから左のジャンピング・ハイキック、パンチのラッシュで猪木を後退させる。

 しかし、猪木はファイティングポーズを決めて立ち向かい左の掌底、ザ・モンスターマンの左ミドルキックをさばいてから胴をクラッチしてロープに詰め寄ると、左エルボーを一閃。だが、ザ・モンスターマンは下がることなく左右のフックを見舞っていく。互いの攻撃が止まらない。