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ダイジンの「正体」を考えるヒント

 だが、ここで言っているのは、ダイジンの行動と役割の問題だ。文字通りにダイジンが父の化身だという話ではなく、象徴関係において父の位置を占めている──というより、正確には父の不在の位置を占めている──という話である。

 ダイジンは地震を止める要石の化身である。物語はそもそも、その要石が不在になってしまうことによって起動する。

 終盤まで、ダイジンは「後ろ戸」を開けて地震を引きおこして回る悪役なのかと思いきや、実は「後ろ戸」が開く場所へと鈴芽を導いていたことが明らかになる。ダイジンは、物語を通じてずっと、「助力者男性」だったのである。しかもこの助力者男性は、芹澤とは違って、物語の大団円に参加する権利を持っている。特権的な助力者男性であり、父的な存在に接近する役割を担っているのだ。

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 またこれが、ダイジンがなぜ草太を椅子にしたのかという、意外と難しい疑問の答えとなっている。父が娘に近づく男を歓迎するわけはないのだ。ついでに言うならば、助力者男性キャラクターの極北である『千と千尋の神隠し』のカオナシが千尋に拒否されて暴走したのとは対照的に──宮崎駿は父の代理としての助力者男性を描き続けた作家だが──ダイジンは鈴芽に拒否されてしょんぼりやせ細ってしまう。

 ダイジンが鈴芽の子供になりたがっていたのは、純粋に間違いなのである。彼は、父にならなければならなかったのだから。ダイジンが子供のようであることが、問題の根源なのである。

『すずめの戸締まり』は、女たちの物語であるどころか、徹頭徹尾、父の不在についての物語だったのではないか。

 そして、全然大臣っぽくなんかないダイジンの呼び名がなぜ「ダイジン」なのかが同時に明らかになる。『すずめの戸締まり』は震災と縮小する日本の気分を捉える作品である。そして、そもそもの物語の発端は要石=ダイジン=大臣がその本来の仕事をしないことであった。

 ここには、大臣=政府がちゃんと仕事をしてくれさえすれば、父がしっかりしてくれれば、鈴芽たちがあのような苦労をせずに済むのに、という願望がある。ダイジンが大臣として、子供ではなく大人として仕事をしてくれれば、そもそもこの物語は必要ないのだ。

 ただし、大臣が仕事をしないことと父の不在が重ねられるのだとすれば、そこには「大臣は男の仕事」という前提があることになる。この作品の核心には、その見た目とは正反対に、男性的な政治への希求が埋めこまれている。

 このすべては(論じないと言ったものの)全編にわたって看取される、震災を神道的な自然へと還元して、神道的な秩序によってそれを抑えこみたい、そしてその仕事は最終的には男性的政治の仕事であるという願望と無関係ではない。鈴芽が要石となるという選択肢は、最初から存在していなかったのだ。

新しい声を聞くぼくたち

河野 真太郎

講談社

2022年5月26日 発売