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なぜ『すずめの戸締まり』はロードムービーなのか?

 鈴芽が行動のイニシアチブを取るというだけではない。本作の中心には「女同士の連帯」というモチーフがある。

 それを考えるにあたって、この映画がなぜロードムービーになっているのかを考えておこう。じつのところ、東日本大震災をめぐる映画やドラマにはロードムービーが多い。『いつかのピクニック』(2012年)、『LIVE! LOVE! SING! 生きて愛して歌うこと』(ドラマ版2015年、劇場版2016年)、『風の電話』(2020年)そして今回の『すずめの戸締まり』である。

 とりわけ、震災で家族を失って広島の叔母さんに引き取られており、岩手の被災地の実家を再訪する女子高校生の物語である『風の電話』(諏訪敦彦監督)は、その設定などが酷似しているが、制作のタイミングを考えると偶然なのかもしれないし、意図的な引用もしくは返歌なのかもしれない。いくつかのセリフや、黄色いシエンタ(トヨタ自動車の車種)といった符合は偶然とは思えないのだが。いずれにせよ、『すずめの戸締まり』に感動したという人は、『風の電話』もぜひ観て欲しい。

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 さて、なぜロードムービーなのだろうか。その答えはこうである。震災はあまりにもトラウマ的であった。そしてそのトラウマは、「場所」(被災地)に結びつけられている。上記のロードムービーはいずれも、震災の後に一度離れたけれども心に棘のように刺さり続けている場所へとゆっくりと近づいていき、回帰して、トラウマと和解する物語なのだ。

 そのような仕掛けがなければ、主人公はトラウマのただ中に放りこまれることになり、それと和解することはできないだろう。トラウマ的な場所の外側に一旦は出て、そこからトラウマにアプローチする。ロードムービーはそれに最適の形式なのだ。

 そして、そのようなトラウマの癒やしの旅は、『すずめの戸締まり』の場合は、鈴芽のさまざまな女性たちとの出会いと交流の旅になっている。まずは愛媛で出会う、民宿の娘の海部千果、そして車で神戸まで連れて行ってくれるスナックのママの二ノ宮ルミだ。

 鈴芽はこの二人に、旅を助けてもらうだけではなく、心の深い部分での助けを得る。別れ際に反復されるハグが、そのことを表現する。

 このように、鈴芽のトラウマの癒やしの旅は、女たちとの連帯によってこそ可能になっている。だが、女たちの連帯が完成するためには、鈴芽のケアのために若い時期を犠牲にした叔母の岩戸環との和解が必要となる。それが、後半のロードムービーの主題となるのは必然なのだ。鈴芽は母が津波に飲まれた宮城の実家というトラウマの中心へと到達する。

 そしてなんと言っても、鈴芽のトラウマを最終的に払拭するのが、彼女に助力の手を差し伸べる男性たちではなく、ほかならぬ鈴芽自身であることが、この「女たちとの連帯としてのロードムービー」を完成させている。