以下の記事では、現在公開中の『すずめの戸締まり』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。

 新海誠監督最新作『すずめの戸締まり』が映画館を文字通りに席巻している。

『すずめの戸締まり』は、宮崎に住む17歳の高校生の岩戸鈴芽が、「閉じ師」の青年宗像草太と出会い、日本全国を旅して廃墟の扉(「後ろ戸」)から出現する「災い」(実質的には地震)を、扉を閉じることで収めていく物語である。

 物語の核心には2011年の東日本大震災がある。そして過疎化などで廃墟化した街や遊園地の扉を閉めるという意匠は、不況と人口減にあえぐ日本の姿を映し出しており、『君の名は。』ではかなり遠回しであった、ここ10年の日本の姿と気分を描こうという意図と野心に満ちあふれた作品である。

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 その狙いはある面では十全に実現されただろう。実際、新海作品の「集大成」といった煽り文句が煽り文句ではなく当てはまるような完成度であり、新海監督は、これを作ってしまったらこの後何を作るんだろうとよけいな心配をしたくらいだ。

©共同通信社

冒頭で主人公が「きれい……」とつぶやく意味

 さて、おそらく震災のことや神道的な意匠については多くの人が論じるであろうから、本稿ではそれとは別の主題に集中してみたい。それは性の主題である。

 実際、新海作品としての本作品の新機軸はそこにある。一言で言えば、この作品は明確に「女(たち)の物語」として企図されているのだ。これまでの新海作品は、「ボーイ・ミーツ・ガール」を基本としていた。主体は男の子であり、その男の子が運命の女の子に出会い、物語が起動する。

『君の名は。』はもっと相互的ではないかと思われるかもしれない。それはある程度正しく、『君の名は。』の瀧と三葉は対等なダブル主人公だと言える。だが、『すずめの戸締まり』はそれをさらに一歩進めた。この物語は、明確に「ガール・ミーツ・ボーイ」の物語なのである。

 そのことは、冒頭の鈴芽と草太との出会いの場面で予告されている。坂道で向こうからやってくる草太の長髪が、キラキラした海を背景に風になびいているのを見た鈴芽は、ハッとして少し頬を赤らめながら「きれい……」と言う(正直、ここで「きれい」と言わせてしまう新海作品の過剰さはどうなんだろう、何も言わない方がいいのに、と思わなくもないが、ここでは鈴芽の感情が性的なものだけではないと示したかったのかもしれない)。

 この後の行動のイニシアチブは、草太が呪いで椅子にされてしまうこともあり、鈴芽が握り続ける。この作品では女性に主体性がしっかり与えられている。そのことは小説版が鈴芽の一人称で書かれていることにも表れているだろう。