今回の極上の助力者男性といえば、後半戦で鈴芽と環を東北まで運ぶ、草太の大学の友人の芹澤であろう。彼は最終的に「気の利いたヤツ」のポジションを確保はするものの、途中までは軽薄が服を着たような人物で、その茶髪とピアスで本当に教員採用試験を受けたのか? と思ってしまう(個人的には別にいいと思うのだが)。
彼は、シリアスではないキャラも助けて、ほどよい距離感で鈴芽と環を助ける、「助力者男性」の典型である。そして助力者男性には肝心なところでお姫様を助ける役割は与えられない。その役割は、述べたように、鈴芽自身に与えられる。芹澤自身はというと道半ばで車の事故を起こして脱落し、物語の肝心要の場面には参加できない。
父はどこに行ったのか?
そして、作品を観てここまで読んでくださった読者の全員の頭に浮かんでいる人物は、完全に不在の人物、つまり鈴芽の父だろう。
本作品は、震災のトラウマとの和解の物語であると同時に、娘と母との和解の物語だ。環との関係は、代理ではあれ、まさに娘と母との衝突と和解の物語になっている。そこでは母(的)な自分が、一旦は母であることを止めて一人の生身の人間となる(環の場合は、若くして鈴芽の母の代理となり、婚期を逃した恨みを鈴芽にぶつけてしまうこと)。
この危機を乗り越えることこそが、母娘関係の困難を乗り越えることにつながる。実際、結末において鈴芽は、4歳の自分自身に対する母のような存在となって震災のトラウマを乗り越えるわけだが、母となるためには、上記のような「母」との葛藤を乗り越えている必要があるだろう。
そのような構図の中で、父が徹底的に不在であることは、奇妙だ。
小説版では、終盤の震災の回想シーンにおいて「私には自分に父親がいないことを寂しいと思ったことなんて一度もなかったけれど(私たちは最初から母子家庭だった)」という記述がある。一体なぜ「最初から母子家庭」だったのかは(そういうことは現実には十分あり得るものの)説明されない。
この父親の不在について、私にはひとつの仮説がある。父がいないことは、この作品が女性中心であることを表現しているのかといえば、実はまったく逆なのではないか。ここで私が言っているのは、要石=ダイジンが、父なのではないかということである。
もちろんこれには一斉に反論が来るであろうことは分かっている。あの猫型のダイジンは父的であるどころか子供のようではないか、と。そして最後に「すずめの子どもになれなかった」と言うではないかと。