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「私も大学までサッカーをやっていたので本人も始めたのですが、小学校に上がるくらいにリフティングの回数は1000回を超えていましたね。ただ、最初からプロを目指していたわけではありませんでした」

 鎌田本人も「自分は“雑草”のように下から這い上がってきた」と自らのサッカー人生を評する。

©杉山拓也/JMPA

 最初の挫折は中学に入る前。日本サッカー協会が創設したサッカー選手のエリート教育機関「JFAアカデミー福島」を受験するが、不合格となってしまう。

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「最終選考まで残っていたんですけどね。親がいない時間帯に通知が届き、自分で封を切ってしまって……。家の2階で号泣していました」(幹雄さん)

 中学からは名門のガンバ大阪ジュニアユースに入り、愛媛の親元を離れて大阪府岸和田市にある母方の祖母の家で過ごした。

「生活費はさほどかかりませんでしたが、ジュニアユースに所属すると遠征費などで出費が相当かさむので、妻がパートに出て家計を支えてくれました」(同前)

「なんで身体が思うように動かへんのや!」

 ところが中2の頃、鎌田に異変が起きる。

「急激な身体の成長に神経系が対応できない『クラムジー』という症状になり、思うようなプレーができなくなったのです。手も骨折するなど苦難の連続だったといいます」(スポーツジャーナリスト・元川悦子氏)

©松本輝一/JMPA

 鎌田は悔しさを滲ませながら、こう漏らした。

「なんで身体が思うように動かへんのや!」

 幹雄さんが回想する。

「あれはジュニアユースの試合で前半で交代させられ、実力が下のチームの練習試合に出るように言われた時のこと。車の後部座席で悔しがる息子に私は何も言えず、ただその言葉を聞くばかりでした」

 さらに高校進学時にも屈辱を味わう。所属するガンバ大阪から「ユース昇格見送り」を通告されたのだ。

<続く>

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