がんになった妻にとって受精卵は、間近に迫る手術や抗がん剤、寛解までの不安な5年間を乗り切るためのお守りみたいなものなのか。先のことがわからないから、今あるもので残せるものは残したいのではないのか。それに彼女の体は彼女のもの。俺はとやかく言える立場ではないし、その資格もないのである。
夫婦が出した「答え」は
そこへ妻から「抗がん剤治療をすると妊娠できなくなるかもしれないから、受精卵の凍結をしたい」とのLINEが。彼女の想いを悟っておきながらもなお「まずは治療でしょ」と止めようか一瞬悩んだが、「やっとけ」と返した。
腫瘍の摘出手術は無事に終了。本来ならば2ヶ月後の抗がん剤治療に備えて安静にしておくべきだろうが、妊孕性温存に向けて動かないといけない。やってくれる病院を探して、見つけ、飛び込んだのは12月21日。抗がん剤治療が始まるのが翌年1月9日だから、19日前のことであった。
数日連続で病院に通って排卵誘発剤の注射を打ち、12月29日に採卵の手術、12月31日に受精卵を凍結できた。
第二子をめぐる夫婦のすれ違いは温存したまま
あれから4年、妻が第二子をほしくなった理由めいたものをポロッと話したことがある。彼女は息子を産んで半年が過ぎたあたりから、電車で立っていられなくなったり、坂道を登れなくなったり、駅で昏倒してベッドで休ませてもらったり、治りの悪い結膜炎になったり、高熱が続いたりなど、数え切れない体調不良に襲われてきた。
俺も妻も産後の肥立ちがよくないうえに、授乳期だった息子の世話で疲労困憊しているのだと信じていた。振り返ると、それらはがんの前兆だったのではないだろうか。そうした状況が続いた末にがんになり、“赤ちゃん期”まっただなかであった息子とまともに向き合えなかったことが悔しくてしかたないそうだ。
一方の俺は、現在も第二子は望んでいない。相変わらず体力面や経済面での不安はあるし、言い方は悪いが「もうこりごり」という気持ちもある。
大変だったのは病気になった妻本人に違いないものの、短期間とはいえワンオペ状態に放り込まれたあの頃のあれこれが軽いトラウマになっている。半年に渡った抗がん剤治療期も妻は抗がん剤の副作用で思うように動けないことが多く、ワンオペが続行していた状態ではあった。
無事に妊孕性を温存できたが、第二子をめぐる夫婦のすれ違いまで温存したままだ。
寛解まで、あと1年。ちゃんと話し合わないといけないのは、俺も妻もわかっている。だが、先のことは誰にもわからない。
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