兄弟で東京に暮らし、兄貴が学費を出してくれた
――千葉さんは大学2年生の時にケガに見舞われ、日体大を退学しています。東京オリンピック出場の夢に破れて将来に悩んでいた時に「東映ニューフェイス」のオーディションを受けて俳優の道へ進むことになったんですよね。
前田 オーディションをトップの成績で合格し、20歳で東映に入社しました。親父の猛反対を受けたそうですが、翌年の1960年にはテレビドラマであっという間に主演デビューを果たし、スターへの道を上り始めた。僕が上京して兄貴と暮らし始めたのは、その直前くらいだったのかな。家計が苦しいながらも、なんとか両親に小学校までは出させてもらいましたが、その先は面倒が見切れなかったのでしょう。中学にあがると同時に、兄貴のもとで世話になることになりました。東京に行けば今の暮らしよりきっとマシになる。そんな希望を持って、坊主頭で紙袋に教科書を詰めて兄貴の下宿先に向かったのを覚えています。
――千葉さんと二人、兄弟での東京の暮らしが始まったのですね。
前田 当時、兄貴がどれくらいギャラをもらっていたかはわかりませんが、中学、高校と兄貴が学費を支払ってくれたおかげで、卒業することができました。ありがたいと思う反面、そのことに負い目も感じていて……。高校を卒業して同級生たちがみんな大学に進学するなか、私はどうしても兄貴に「大学に行きたい」とは言えなかった。兄貴のところにはよく芸能人が遊びに来ていたし、たまに撮影所にも連れて行ってもらっていましたから、そのうち周りから「役者をやるのか」と言われるようになったんです。全然考えてもみないことだったんだけど、面白そうだなと思い始めて、じゃあ役者をやってみるかと。
千葉真一の弟「千葉治郎」で芸能界デビュー「本当は別の芸名がよかった」
――前田さんが俳優を志すと聞いて、千葉さんはどんな反応でしたか?
前田 兄貴に相談したら、「役者をやるには、演技の勉強をきちんとしなくちゃいけない」といって、樹木希林さんや黒柳徹子さんが輩出した文学座附属演劇研究所に入れてくれました。卒業後1年くらいはアルバイトをして過ごしていたんですが、急に生島治郎さん原作のテレビドラマ『ブラックチェンバー』でレギュラー出演が決まったんです。いきなりカメラの前で演技をすることになって、何をやっていいかわからなかったですね。
――デビュー時はやはり「千葉真一の弟」ということを前面に押し出していたんですか?
前田 そうですね。本当は、生島さんが「志田英治」っていう芸名を付けてくれたんですが、それじゃあ駄目だって周りが受け入れなかった。千葉真一の弟とわかるようにしなくちゃいけないと。それで、生島さんの名前の「治郎」をもらって、「千葉治郎」でデビューが決まりました。私は、生島さんが付けてくれた芸名のほうがよかったんだけどね。