真田広之や志穂美悦子もやってきたジャパンアクションクラブ
――前田さんのデビューが1969年、20歳の時です。その翌年、千葉さんはアクション俳優、スタントマンの養成所として「ジャパンアクションクラブ」を立ち上げ、前田さんも一員となりました。
前田 ある時、兄貴がスタントマンを育てる養成所を自分たちで作ろうって言いだして、大きな体育館の地下室を借りたんです。最初は数人で、その日の撮影でやった立ち回りを再現したり研究したりしてね。木刀が折れるくらい、毎日、毎晩……。兄貴は当時忙しかったので、僕が行っていたんですけどね(笑)。そういえば、私の中学時代、兄貴と暮らしていた部屋に、少林寺拳法をやっている大学生が居候していたのですが、6畳の狭い部屋にグローブだけが2組かけてあって、そこで彼とトレーニングみたいなことをしていました。
――「ジャパンアクションクラブ」の原点はそこにあったのですね。
前田 ひっそりと始めたクラブでしたが、メディアの取材が入るようになるにつれ、段々と世間にも知られるようになってね。研究生の募集を掛け始めたら、真田広之や志穂美悦子といった才能のある若者がやってきて、一躍有名になってしまった。世の中的にも空手や合気道をテーマにしたアクション映画がブームで、時代が追い風になってくれたんです。
渡瀬恒彦が「もう治郎ちゃんを自由にしてやんなよ」
――前田さん自身も、たくさんのテレビや映画に出演される人気俳優になっていきます。初主演作の『激突!合気道』では千葉さんとの共演も話題になりましたが、千葉さんから演技について何かアドバイスはありましたか?
前田 一切なかったですね。もしアドバイスをしてくれたとしても、「違うな」と思ったかもしれない。兄貴は時代劇やアクションといった強烈な印象を残す演技を得意としていましたが、私はそれが苦手で、どうしても嘘っぽくなってしまう。私はどちらかというと感情表現を追求できるような作品にもっと出たいと思っていたんですが……。本当のことを言うと、兄貴が離してくれなかったんですよ。
――千葉さんは前田さんが東映を出ることを許さなかった。
前田 渡哲也さんの弟の渡瀬恒彦さんとは仲良くさせていただいていたのですが、ある時に僕らの状況を見かねたツネさんが、兄貴に「もう治郎ちゃんを自由にしてやんなよ」って言ってくれたそうです。それでも兄貴は首を縦には振りませんでした。良くとれば私のことが心配だったのかもしれないし、悪くとれば自分の引き立て役に置いておきたかったのかもしれない。兄貴の真意はわかりませんが、いずれにしても私が離れるのを許さなかったんです。とはいえ、兄貴にここまで世話になってきたことも事実ですし、兄弟で売り出したい大人の事情もわかっていたので、仕方のないことだと自分に言い聞かせていました。
「千葉真一の弟として芸能界で生きていくことが、どうしても受け止めきれずにいた」
――1975年に千葉治郎から矢吹二朗へ改名し、その翌年に丹波哲郎さんが主宰する丹波プロダクションに移籍したのも、そうした葛藤からの行動だったのでしょうか。
前田 「千葉真一の弟」として芸能界で生きていくことが、どうしても受け止めきれずにいました。でも、プロダクションを移ってからも、兄貴が立ち上げた会社の手伝いはしていたんですよ。そんななか、ある時に会社の税理士の先生から、「この会社はもっと大きくなる。あなた以外にやる人がいないから、俳優を続けるか、経営者になるかどっちか決めてくれ」と言われたことがあり、それが俳優を辞めるひとつのきっかけになりましたね。