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「役者はもういいや」

――俳優の仕事に未練はなかったのですか?

前田 ありましたよ。でも本当のことを言うと、俳優になってからずっと、芝居ってなんだろうと悩み続けていました。どうやったら説得力のある感情表現ができるのだろうかと試行錯誤していたけれど、僕がいた現場ではあまりそういう芝居は求められていなかった。

――求められる演技と、追求したい演技の方向性が違ったのですね。

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前田 私の最後の作品となったのは、高橋伴明監督の『TATTOO<刺青>あり』という映画です。僕は宇崎竜童さんの幼馴染役で、宇崎さんを相手に自慢話をしているとき、彼が何気なく見せた刺青を見て顔色を変えるというシーンがありました。そのとき高橋監督は僕の演技を見て、「二朗ちゃん、そんないきなり顔は変わるものじゃない」と言ったんです。確かに、笑っていたのがふっと真顔になることは現実にあまりない。この監督はすごいな、いいことを教えてもらった、と感動したと同時に、自分の中で「役者はもういいや」って思ってしまったんです。33歳の時でした。

前田さん 撮影/平松市聖 ©文藝春秋

――それ以上続けてみようという気持ちはすでになかったんですね。

前田 その後、いいオファーをいただくことはありましたが、やめると決めたからと断り続けました。もしまた映画に関わるとするなら、今度は自分で撮ろうと。実際に3本くらい、自分の中で企画がありました。兄貴が作った会社で経営者としてお金を稼いで、それを実現させられたらという密かな夢を持っていたんです。

「スターになってチヤホヤされるうちに、兄貴は変わってしまった」

――実現はしなかったのですか?

前田 税理士の先生が言ったように、確かに会社は大きくなって結構儲かっていたんです。関連会社として作ったアパレル会社も成功した。でもね、兄貴が全部ぶち壊しました。映画人としては尊敬できますが、経営者としてはどうにもならない人で(笑)。

2005年にハワイ国際映画祭の「MAVERICK AWARD」を受賞した千葉真一さん ©共同通信社

 スターになってチヤホヤされるうちに、兄貴は変わってしまったんです。札束をばら撒いて飲み歩いているようなお金持ちの人たちが集まるようになって、兄貴もそれがうらやましかったのかな。彼らにつられて贅沢三昧の生活をしているから、お金がいくらあっても足りない。兄貴が苦しくなった時、僕が貰うべき資産や報酬を兄貴に渡したこともありました。

前田さん 撮影/平松市聖 ©文藝春秋

 いろんな人がやってきては、兄貴においしい話を吹き込む。僕が「それはおかしい」と言っても聞く耳を持ってくれず、「お前は俺のやろうとしてることを邪魔するな」と言われてしまった(笑)。僕も疲れてしまって、母の介護をきっかけに地元に帰ることにしました。僕は兄貴と違って、お金に支配されるのが嫌で、生活ができればじゅうぶんという考えでしたから。でもそのおかげで、こちらに移ってからもこうして贅沢せず、楽に生きることができていますよ(笑)。

#2に続く)