山下「坂本(龍一)くんかな。彼がYMOのメンバーになる前、70年代半ばから2年半ほど、それこそ毎日のように会っていた時期がありました。数年前、久しぶりにゆっくり話す機会があったんですが、距離感はまったく同じだった」
初対面からウマが合った
——『戦場のメリークリスマス』に出演。音楽も担当して以来、“世界のサカモト”と呼ばれて久しい存在ですよね。今となっては、ちょっと意外な人脈とも思えますが。
山下「初めて会ったのは1974年頃。福生にあった大瀧詠一さんのスタジオでのリハーサルでした。それまで面識はなかったんですが、坂本君は新宿高校、僕は竹早高校で、同時期に高校紛争を経験しているんです。年齢的には坂本君が1級上。僕が高校をサボって、茗荷谷の喫茶店のテレビで三島(由紀夫)自決の臨時ニュースを観ていた1年前、坂本君は学校で3人だけだった某マイナー新左翼のメンバーとして、長髪・下駄ばきで校内を闊歩してたそうです。ちなみにあとの2人は、後年衆議院議員になった塩崎恭久さんと、『アクション・カメラ術』で有名になった馬場憲治さん。
そういう背景もあって、坂本君とは初対面からウマが合った。新宿のゴールデン街の飲み屋で、彼が東京藝大で専攻していた現代音楽について、クセナキスがどうしたメシアンがどうしたと、酔っぱらいながら客と論議を戦わせているのを眺めたり、行きつけのライブハウスの酒を一緒になって飲み尽くしたり(笑)。
彼が学んだフランス近代音楽についても、いろいろ教えてもらいました。僕の7歳上の従姉が藝大のピアノ科出身でね。仙台在住で、高校時代に泊りに行った時、(ヴァルター・)ギーゼキングが弾くドビュッシーのレコードを聞かせてもらってた。坂本くんと出会ったのはそれから5年後くらいだけど、“だったらこれもいいよ”と薦めてくれたのが、ラヴェルの『序奏とアレグロ』。同じラヴェルの『ダフニスとクロエ』ならブーレーズの指揮が一番いいとか。年齢は坂本くんが1歳上で、学年もひとつ上。ちょっと変わったやつだけど、高校で隣の席に座っててもおかしくないような、共通するメンタリティがあった」
言葉のキャッチボールは人間関係における“生命”
——やはりどこかに都立高校の匂いが。
山下「そうですね。でも、坂本くんはちょっと特別だね。あの人とは特別相性がよかった」
——その特別な感じについてもう少し。
山下「すごく生意気な言い方をさせてもらうと、知的なレベル。知性のコール・アンド・レスポンスがスムーズだった。こちらが提示したものに対する反応。逆もまた真ですけど、言葉のキャッチボールというのが人間関係における“生命”だと思うので。大瀧さんもそうだった。それがないと、長いつきあいってできないんです。こないだ食ったメシの話とか、どこそこの店がうまいとか、そういうことじゃない。
余談になりますが、『IT’S A POPPIN’ TIME(イッツ・ア・ポッピン・タイム)』という78年の僕のライブ・アルバム。坂本君のフェンダー・ローズの上にアープ・オデッセイというアナログ・シンセサイザーが乗ってる写真がありますけど、あれももともとは僕の私物だった。シュガー・ベイブ時代の所属オフィスでは、同じ事務所だった山下洋輔トリオや、洋輔さんが関わった筒井康隆さんの朗読アルバムなどで、レコード会社から制作アドバンスをふんだくっていて(笑)、それで買った楽器のひとつだった。買ったはいいけれど扱いが難しくて放り出されていたのを、僕が引き取って使ってた。それをいつの間にか持っていかれちゃって(笑)」