(#1より続く)
中学までは優等生だった
——達郎さんは、池袋が地元ですよね。
山下「そうです。1953年生まれです。僕の子供の頃の池袋って、それはヤバい街だった。まだ中央地下道もなくて、今パルコのあるあたりの狭い地下道の両端に浮浪者が寝ていた。その合間を恐る恐る自転車を押して、西口と東口を移動していました」
——一歩間違えれば、今で言う“マイルドヤンキー”になっていてもおかしくない環境ではある。
山下「界隈的にはあり得ない話でもない。実際、高校時代は留年すれすれのところまで行って、未来のことなんて何も考えられない時期を過ごしてますから。
中学までは優等生だったんです。僕が通っていた豊島区立高田中学は、城北地区では進学校の部類。僕自身、実家が練馬に引っ越した後も親が住民票を残して、そのまま通っていたくらいで」
全学ストのおかげで留年せずに高校を卒業
——なのに、高校でドロップアウト。
山下「2年前に始まった(都立高校の)学校群制度が悪かったんです。同じ地域で学校がグループ化されて受験するシステムになって、行きたい学校に行けなくなった。僕は小石川高校に行きたかった。理系志望で天文学が好きだったので、天文台に勤めて星を眺めて暮らせたらなんて夢があったのに、違う高校に振り分けられて、そこから一気に人生が変わってしまった(笑)。学校のせい、というより、時代が悪かった。高校になって、さあ髪が伸ばせると思っていたら、とんでもない。学年主任の数学教師、東大出、柔道ン段のモサに“こっち来い”“いつまで髪伸ばしてんだ”とやられたんです。しかも数学担当でしょ。その時点で完全にやる気をなくして、成績はガタ落ち、文字通り留年すれすれで2年に上がった。ところが、その年(69年)の5月に、教職員全員が修学旅行費や補修費でリベートを取ってたスキャンダルが発覚して、70年安保と絡まって大騒動になり、高校で全国唯一全学ストにまで突入した。その騒動のおかげで、なんとか卒業できた」
——全学ストが、ある意味僥倖だったんですね(笑)。
山下「僕、還暦近くになるまで、高校を卒業できない夢を見てたからね。留年して1年下のやつと一緒になって、それが嫌で退学するという。最近ようやく見なくなりました(笑)」
——高校時代の悪夢からやっと解放されたんですね。
山下「それくらいトラウマが大きかった。そういう経験もあって、登校拒否とか不登校とかって、実感として理解できる。尾崎豊の歌とかもね」
“あのコーラスは誰? ”ユーミンから声がかかったきっかけ
——そこは坂本さんとの肌合いの違いですね。
山下「あえて言葉にするなら、僕は“心情的アナーキスト”でね。党派性とか、集団でつるむことに対する、根本的な部分での懐疑がある。“反体制”という言葉でさえ、スローガンに聞こえてしまうというような。
ただ、たとえ背景が違っていても、音楽をやってる者同士の“縁”が不思議な繋がりを作っていったのが70年代の音楽業界のおもしろいところで、僕の場合だと、たとえばユーミン(松任谷由実)がそうですね。彼女と知り合ったのも坂本くんと同じ1974年頃です。彼女が結婚して松任谷姓に変わる前、荒井由実として活動していた時代。『12月の雨』という曲のコーラスを依頼されたのがきっかけだった」
——ユーミン初期の名アルバム『MISSLIM(ミスリム)』収録の曲ですね。
山下「ちょうど僕がコーラスのスタジオ仕事を始めたばかりの時で、あの時代、僕のようなタイプの男性コーラスは他に1人もいなかったんです。当時のスタジオミュージシャンのコーラスと言えばグリー・クラブ直系。一時代前のコーラス・スタイルしかなかったので、ロックやフォークのコーラス仕事は相当数やりました。
ユーミンから声がかかったのも、僕がバックコーラスで参加していたライブを、たまたま彼女が観に来ていたからなんです。そのとき一緒にコーラスをやっていたのが、僕が当時やっていたバンド、シュガー・ベイブのメンバーの大貫(妙子)さんと村松(邦男)くん。“あのコーラスは誰? おもしろいから呼んできて”ということになったらしくて、レコーディングに参加することになった。
縁は異なもので、そのちょうど1週間前、ター坊(大貫)が久保田麻琴の『ルイジアナ・ママ』のレコーディングで吉田美奈子さん(シンガー・ソングライター。70年代半ば以降、山下の作品に歌詞を提供)と初めて会ったんです。そこでター坊が“私、バンドやってるから観に来ない?”と誘ったことから、シュガー・ベイブがゲスト出演したアマチュアバンド・コンテストに美奈子が遊びに来た。僕は美奈子のファンだったので、そのあと行くことになっていたユーミンのレコーディングに来ないかと、声をかけたんです。その流れで、田町にあったアルファ・スタジオに美奈子も同行して、結局彼女もコーラスで参加することになった」