(#3より続く)
竹内まりやというアーティストを一言で表すと…
——「責任」とおっしゃるところに、プロデューサー気質を感じます。
山下「80年代までの僕のジレンマとして、プロデュースした他の人のアルバムの売り上げが、自分のソロを上回ることがないという悩みがあったんです。その結界を打ち破ってくれたのが、竹内まりやが1987年に出した『REQUEST(リクエスト)』。あれが初のミリオンセラーを記録して、ようやく自分も一人前のプロデューサーになれたと、胸をなでおろしました。どっかのスポーツ新聞の記者みたいに、喜びにチャチャを入れる人もいましたけどね。『(売り上げで)カーチャンに負けて悔しいだろう』なんてね。余計なお世話だよね(笑)」
——まりやさんの話題が出たのでうかがいますが、プロデューサー山下達郎から見て、竹内まりやというアーティストを一言で表すとすれば。
山下「色々な意味で、とても例外的なスタンスの人です。結婚後2年ほど活動を休んだ時期があって、復帰作の準備を始めた頃、『この期間に書き溜めていた曲があるんだけど』って、カセットのデモを持って来た。最初に聞かされたのが『プラスティック・ラヴ』。腰を抜かして、『こんな曲が書けるのに、なんで今までやらなかったんだ』『チャンスがなかったから』……。その後も続々と持って来て、これなら全曲彼女の作詞作曲でアルバム一枚作れるんじゃないかということになって、当時としては画期的な試みで完成したのが復帰第1作の『VARIETY(ヴァラエティ)』でした」
デモ・テープの作り方だけは指南していた
——休業中に曲作りしていらしたのを達郎さんがご存じなかったというのも、不思議と言えば不思議な気がしますが。
山下「“英語をブラッシュアップしたい”と言って、英語学校に通っていたりしたんですよね。82年に河合奈保子の『けんかをやめて』を書いたり、あと堀ちえみとかアイドルへの曲提供はしていたけど、それには僕は一切関知してなかったんです。アレンジもやってないし。当時は僕がツアーに出ずっぱりだったという背景もあります。83年には自分の『MELODIES(メロディーズ)』作って、村田和人くんのアルバム作って、それでツアーでしょう。その間、あっちはあっちで家でゴソゴソやっていた。
デモ・テープの作り方だけは指南していたんです。自分でデモを作りたいというので、4チャンネルのカセット・デッキとリバーブ・マシン、あとはリズム・マシンの使い方を教えはしました」
——にしても、いつの間に、という感じではあった。
山下「まだ子どもがいなかったからね。家の防音部屋にこもって、色々と作ってたみたいです」