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奇妙な廃墟が生まれたワケ

 奇妙な「水没ペンション村」が生まれるに至った経緯を知るには、日本の製塩業の歴史を紐解く必要がある。

 中国四国地方の瀬戸内海沿岸、いわゆる「十州地方」は、気候的、地形的に塩の生産条件に恵まれており、とりわけ牛窓、鹿忍は良質の塩が採取できる土地として古くから知られていた。

※写真はイメージ ©iStock.com

 牛窓、鹿忍地区では、宝永6年(1709年)には既に大塩田が形成されていたとの記録がある。江戸時代以後も、瀬戸内海沿岸部は日本の製塩業の中心でありつづけ、明治末期には日本全体の塩の86.6%もの生産を担ったという。

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 しかし、大正から昭和初期にかけて、第一次世界大戦の戦後恐慌、世界恐慌と不景気が続くと、塩の生産は国産から低コストな台湾や関東州の植民地生産へと移り、国内の塩田は次々と閉鎖された(第二次塩業整備)。

 鹿忍の塩田は第二次世界大戦後も残ったが、製塩技術の進歩と、同じ牛窓地域の錦海湾を干拓した最新式の大規模塩田(500ha=東京ドーム107個分)の登場によって、1959年12月、数百年続いた牛窓鹿忍の塩田は、ついに役目を終えた(第三次塩業整備)。

 さらに、1971年にはイオン膜交換法を用いた画期的な製塩法が実用化され、全国の塩田が一斉に閉鎖された(第四次塩業整備)。牛窓、鹿忍地区にあり、東洋一の規模と謳われた錦海湾の塩田も、完成から僅か12年で廃業した。塩田は完全に過去の遺物となったわけだ。