大羆に追いかえされる
ところが、われわれが渓谷から稜線へ登りつこうとした時、おどろくべきことが起こった。
見るも巨大な羆が岩峰上で、ガウオーッと咆哮し、こちらを威嚇したのだ。思わずドキッとした。いつもならシメた……と銃をかまえるところだったが、いかにせん場所が悪かった。
なにしろ、登るのがやっとの急斜面である。四つん這いになってようやく登れるくらいの雪の壁なのだ。これでは射撃どころではない。銃をかまえたら、自分のからだが墜落してしまう。と、いって横に散れるような場所ではないのだ。
巨大な羆はいまにも襲いかかってきそうだった。向うは身を躍らせ、得意の尻滑りでくればたちまちわれわれを襲える。しかも、こっちは持っている銃を自由に使えないのだから、無防備も同然だ。
ゾッと全身に油汗が流れた。
「逃げろ!」
誰がいったのか、われわれはすぐに逃げだした。それでも私は殿(しんがり)を承り、万一の時はなんとか銃を射とうと、こわごわ準備だけはした。
いまにも襲いかからんばかりの岩峰上の大羆を見て、度胆をぬかれ、ペチャンコになったわれわれ猟人は、恥も外聞もあったものではなかった。こうなると、もうあの羆を倒そうなどという気はなくなり、恐ろしさが先にたつ。最後部殿の私は、後から羆に追いかけられているような気がして、ただヒヤヒヤと恐怖心に追いたてられ、無我夢中でストックをつっぱって走った。
かくして三の谷を越え、二の渓谷上の稜線に逃げ登って、振り向いてみた。すると、さっきの岩峰上には、もはや羆は見えない。
ヤレヤレ……と、われわれもようやく胸を撫でおろし、ヤツも逃げて姿を消したのだろう……と一安心した。
「ヤア、助かったなあ」
と、異口同音に囁きあい、ほっとした思いで流れる汗を拭った。
と、その時、われわれの1人、沢野が、
「ヤッ、あれはなんだ!」
と、とてつもない声で叫んだ。ショックだった。彼の指す方を眺めると、なんと先刻までわれわれの立っていた前方の稜線上に大羆が前と同じ格好をしてわれわれを見下しているではないか。
それこそ愕然として息をのんだ。冷水三斗というが、それどころではない。胆っ玉もでんぐり返ったかと思われるほどのショックだった。
瞳をよくこすって、よくよく確めたが、やはりあの羆に間違いはない。いつのまにか、われわれを追いぬいてきているのだ。お互いに顔は土色になり、全身はがたがた胴震いがきてとまらない。
無言のまま、青ざめた顔を見合せて声も出ないありさまである。やられるのでないか……という感じが、一瞬、脳裡を稲妻のようにかけた。