他者を、「私の物語」のための素材にすること
浅川と岸本が経験したのは、社会において多くの人が遭遇する、組織や権力といったものの暴力性・理不尽さ、抑圧や忖度の問題である。それを自己批判も含めて描写していくような創作上の挑戦そのものは、とても大切なものだ。
あらゆる意味での差別が蔓延り、個人の意見を表明することへの抑圧にもまみれたこの日本社会では、尚更それは重要である。本作が「民自党」という名称に置き換えて批判しようとしたであろう、政権与党としての自民党による数々の失政に対しても、私も強く批判したい気持ちがある。
しかしそうした点を踏まえても、この物語が持つ、現実に実在した事件=具体的な社会・歴史に対するデリカシーの無さ、そしてそこに起因する「他者」を「食い物」にするような扱い方には、看過できないものがあるように思う。
浅川と岸本はひたすら「見る」ことしかできない。劇中において事件そのものは浅川・岸本自身の物語ではなく、ふたりはそこでは外部化されている。事件を「見る者」としての自らについて、浅川も岸本も、根本のところで自己を問わない。疑問も葛藤も、最終的には「見る者」としての自己肯定や自己実現に還元されていく(劇中での犠牲者たちへの鎮魂や弔いそのものが積極的には焦点化されず、結果的に物語の動力のためのフックになってしまっていることは、そのことと無縁ではないだろう)。
それはふたりの造形の参考にされた佐野の、その佐野を「見る」ことを通して物語を書いた渡辺の、そしてテレビメディアの、更には視聴者=消費者としてテレビを「見る」私たち自身の問題でもあるのではないか。
「見る者」としての想像力は、対象をいくらでも「ネタ」にし得る。その対象に内在しているわけではないからだ。だからいくらでも「ネタ」をカットアップし、コラージュし、「見る者」としての「私の物語」を語るための素材にすることができてしまう。
この文章を書いている私自身もまた、そういう「見る者」としての想像力に頼ってしまっていると言っていいだろう。『エルピス』というテレビドラマを観ることを介して、このように批評めいた文章を書いているのだから。
現実の歴史を敢えて改変し、再構成することで創造されるフィクションの可能性を私はまったく否定しない。それはむしろ、人間の想像力が持つ重要な可能性のひとつであるとすら思う。現実を素材に「ifの歴史、ifの社会」としての物語を考えることは、オルタナティブな世界の在り方や、歴史のなかで打ち棄てられてきた存在など、いまだ不可視なものを想像するための手掛かりにもなり得るからだ。