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 しかしそれは現実と虚構の間にある距離について、現実の歴史が持つ重たさや入れ替え不可能性について、科学的検証の重要性について、そして何より社会や歴史を「見る者」としての自分自身のフリーハンド性についてよくよく内省した上ではじめて可能になるものであり、それを怠れば単なる情報処理的なお遊びにしかならないはずだ。それどころか、一歩間違えれば歴史修正的・陰謀論的な主張を招くことにすら繋がりかねないだろう。

 例えば先述したように本作は明らかに「飯塚事件」を参照しているが、この事件について発生している、真偽不明のさまざまな物語的言説が、あまりにも無邪気にこのドラマのストラクチャーに採用されてしまっている点についても、制作者達は、そして私たち視聴者は、どこまで真剣に検討することができているだろうか。

 物語的な形での世界認知に安易に依拠してしまう怠惰さは、制作者達が繰り返し口にする「現実の複雑さ」への向き合いとはまったく逆行するものであるようにしか思えない。

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現実を「ネタ」にするような態度から距離を取るために

「私の物語」のために現実を「ネタ」にするような態度は、独りよがりで安直な自己陶酔に辿り着きやすいように思う。大切なのはそのようなナルシシズムに陥り自己弁護を繰り返すことではなく、「見る者」としての自ら(テレビドラマを観ている私たちは、誰もが皆「見る者」でしかあり得ない!)こそを問い、その上で粘り強く作品や社会、そして「他者」の重たさを理解するために、努力し続けることではないだろうか。

「目の前の人間を信じられること」は、たしかに喜びにも希望にもなり得る。しかしその「目の前の人間」はどこまでいっても「他者」でしかないということの重みを、その「他者」を都合よく独善的な態度で「見る」ことに自分が陥っていないかを、私たちは全力で考える必要があるはずだ。