『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史 著) 

『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史 著)

 こうして「予測変換」と打とうとすると、もう「予測」の時点で「予測変換」と出てくる。予測変換も予測変換される世の中は、便利だけど息苦しい。そのお陰か、そのせいか、他人の感情もなんとなくわかってしまう。こんなにも視力が悪いのに、見たくもない奥まで、ずっと見渡せてしまう。

 朝早くに起きて、国立から電車を乗り継いで昭島へ。駅前に停まった灰色のマイクロバス(密かに護送車と呼んでいた)に、灰色の人間が吸い込まれていく。車窓はゆっくりと動いて、前日と同じ道を、前日と同じ揺れ方で進む。車内は二酸化炭素が濃くて、朝なのにもう夕方の色をしている。工場に着いたらロッカーで着替えを済ませる。バンドマンというロッカーの落ちこぼれが、ロッカーでクソダサい青いエプロンを身につける姿は、今思い出しても切ない。ラジオ体操をして、担当のレーンへ。

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 レーンの内側には女性(主に年配。密かに鬼と呼んでいた)が陣取って、ベルトコンベアで流れてくる折畳みコンテナの中に雑貨を詰めていく。そんな鬼の為に、外側から雑貨を補充するのが主な仕事だ。

 商品棚に記された4桁の数字、頼りない情報を頼りに、同じ数字が書かれたダンボールを探す。真夏の工場内はむせ返る熱気で、走っていると汗が冷えて涼しいけれど、走っているからまた汗が流れて困った。

「あぁーらぁーぉー」と、レーンの向こうから鬼が叫ぶ。案の定、1番人気のトランクスの棚が空になっている。これで時給750円はおかしい、と思う暇もなく、また走った。

 別のレーンで補充をしている宮崎さんの灰色のTシャツ。地図のような形に濡れた背中は、どこにも行けずに忙しそうに動いている。就業後、「親の介護が大変だ」と言い残してママチャリに跨る宮崎さんの背中は、もうしっかり乾いていた。

 夕方になると、どこかのレーンで喧嘩が始まる。オッサン同士は怒鳴り声をあげるものの、どちらも手は出さないで、誰かが止めてくれるのを待っている。なんとなく胸ぐらを掴んだりして時間を持て余す様が、愛おしい。多くの失業者が次までの繋ぎで働いていたあの工場では、「俺はこんな所に居る人間じゃない」という段ボールのようなプライドが、よくカサカサぶつかり合っていた。

 そしてある日、それに巻き込まれた。

 クソダサエプロンをつけているのが正規のアルバイトで、クソダサエプロンをつけていないのが日雇いのアルバイト。その日、クソダサエプロンをつけていない同世代の男に、段ボールで頭を叩かれたのがきっかけで口論になった。血相を変えて、カッターの刃を向けたかと思えば、腕まくりをして刺青を見せつけてきた男に震えあがった。

 えっ? でっ? 怖いよ。TUBE前田さんの、「君だけのTomorrow」知らないの? 「涙は流すもんじゃない グッとこらえてから溢れるemotion」って歌ってるじゃん。刺青も見せるもんじゃない グッとこらえてからチラつくemotionじゃないの? 自分で見せちゃう?

 聞くと、俺の歩き方が生意気で気に入らない、と言う。そして、「俺は、お前みたいな何も無い馬鹿と違って、鳶の仕事があるんだ。今はたまたま仕事が空いてるからここにいるんだよ」とも言われた。

 口論の終盤、男が「みんながお前の事嫌ってんだよ」と言った。えっ、俺は嫌われてたのか、と普段から仲良くしているクソダサエプロンの人達を思い浮かべて、一瞬喉の奥が詰まった。

 みんなって誰だよ、と聞くと、クソダサエプロンをつけていない知らない男が呼ばれて来た。誰だよお前、知らないよ。怒りが湧いたのと同時に、心から安心した。後で、クソダサエプロンの人達にそのことを話すと、自分の事のように腹を立ててくれた。

 それからすぐ、バンドが忙しくなって、工場のアルバイトはやめた。あの馬鹿とは違って、音楽で飯を食う夢を叶えて、たまたま仕事が空いたりもせずにここまで来ている。

 この本には本当に救われた。痛み止めで誤魔化していた虫歯を、神経から治療してもらったようだ。いつの間にか絶対になっていたおかしな事柄に気がつけた。これからは、予測変換に任せたりせずに、自分が思った全てを、自分の言葉で打ち込み

(あぁ、また予測変換がでた……)

たい。

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「君だけのTomorrow」作詞:前田亘輝 作曲:UNI

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

鴻上 尚史(著)

大和書房
2011年2月9日 発売

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